08 佐久へ引っ越す別世界—のんびりした生活 挫折感の半面解放感も 埼玉県入間市での小松との生活も落ち着き、私は個展開催やグループ展に参加するなど、作家活動を本格的にスタートしていました。しかし、病弱だった小松の父の体調が悪化し、心細いので長野県に戻って来てくれないか—と、両親から連絡が来るよ...
07 仕事と作家活動の両立初の個展では苦い思い出 反省生かし次のプランへ 東京芸術大学の4年生になった私は、中学校の先生になって、その傍ら作家活動をしようと、東京都の教員採用試験を受けましたが、まじめに試験勉強に取り組まず、当然の結果として不合格でした。次に、美術界という特殊で狭い世界で作品を発表す...
06 東京芸大に進学先輩・小松と恋愛に発展 共に現代アートの表現へ 1975(昭和50)年、憧れの東京芸術大学に進学しました。2浪目の1年間、予備校の私のクラス担任だった小松良和もまだ芸大の研究生として在学中で、予備校で共に学んだ多くの仲間も入学したので、入学当初は予備校の延長のような感覚でし...
05 予備校2年目後の夫が新クラスの担任 指導のおかげで芸大合格 東京芸大合格の目標がかなわず、2浪が決まった1974(昭和49)年3月、住んでいたアパートが全焼する災難に遭った私。一緒に住んでいた西高時代からの友人は一人暮らしをすると決めてすでに引っ越していたので、残った私は、2人で払って...
04 美大専門の予備校学校で描き帰宅後も描き そんな毎日も当たり前に 1973(昭和48)年、長野西高校を卒業した私は、東京・西池袋にある美術大学専門の予備校「すいどーばた美術学院」に入りました。東京芸術大学のみ受験し、不合格だったからです。芸大は1浪、2浪して入るのが当たり前だったので、浪人生...
03 中高とも美術部将来は美術関係の仕事を 西高では夜遅くまで描く 母の実家は商売をやっていて、いろいろな人が出入りしていました。長野美術専門学校(中御所)の前身である村田絵画研究所を開設した画家の村田武次先生もその一人です。絵がうまかった母は、村田先生から、現在の東京芸大を受験してみたらどう...
02 絵を描くのが好き幼稚園の先生に褒められ 自分は絵が得意なのかも 父の小山一夫は、篠ノ井山布施村山の農家の長男で、私が2歳ごろまで、祖父母やきょうだいのいる村山の家で一緒に暮らしていました。父は中部電力に勤めていて、通勤が大変だったことから、善光寺下の花咲町に引っ越しました。農家の大所帯から...
01 色彩感覚花をテーマに追い続けて いつの間にか40年近くに 生まれ故郷・長野市篠ノ井山布施の村山という集落に私がアトリエを構えたのは、35年以上前になります。父は農家の長男で、使っていなかった畑にアトリエ兼住居を建てたのです。以来、ここを拠点に作家活動をしてきました。...