top of page


01 美容室「ALPHA」社長 杉山一真さん
美容一筋50年 「はさみ一丁で世界へ」挑戦 「ナガコレ」で長野を元気に あでやかに着飾った着物姿のモデル100人が美容師にヘアセットしてもらい、長野市の中心市街地を練り歩く—。2015年に始まった「ナガノコレクション(ナガコレ)」は、県内の美容師や美容業界を目指す学生らが手...


02 父の背中
貧しくも家族に愛情深く 忘れがたいサーカス見物 私は1953年、飯縄山に抱かれた牟礼村(現・飯綱町)高岡地区で、父・森一と母・うめのの長男として生まれました。姉が2人います。 大正生まれの父は寡黙で威厳があり、近所の人からは「地域一番の働き者」と呼ばれていました。父の教えは...


03 山森先生
「ありのまま」を受け入れ 反発心溶かした「温かさ」 自分にとってかけがえのないと断言できるような人との出会いはそうそうないと思います。私の場合、「自分の人生を変えた」と思える人との出会いは、早いほうでしょうか。小学2年生の初めごろ、その人は、山森綱江先生です。...


04 貧乏は嫌だ
負けず嫌いの性格を形成 「成功したい」と強い気持ち 身近で人の死を初めて経験したのは小学3年生の夏でした。同居していた父方の曽祖母が、朝は普段通りだったのに、私が学校から帰ると脳梗塞で亡くなっていました。私のことを大変かわいがってくれ、毎晩隣で寝ていました。記憶に残っている...


05 中学時代
部活も勉強も熱が入らず 最後の最後に厳しい現実 大人になってから、旧牟礼西中学時代の友人と再会すると、「お前が社長になったなんて」と、よく驚かれました。そう思われるぐらい、私は存在感の薄い生徒でした。 部活動は、小学6年生の時に地元の少年野球チームに入って始めた野球部に入り...


06 荒れた高校生活
うっぷんや劣等感大爆発 心の隅に「親に申し訳ない」 高校受験で公立高校に不合格となった私は、2次募集で合格した長野中央高校(現・日大長野高)に進みました。しかし、受験に失敗した時、あれほど「自分を変えたい」と願ったのに、どうやって変わればいいのか分からないまま、時間は過ぎて...


07 高3で初パーマ
美容室に立ち寄るうちに 男性美容師の活躍に刺激 私が初めて美容室でパーマをかけたのは高校3年生の夏頃でした。 それまで美容の世界とは縁もゆかりもありませんでした。幼い頃は「坊ちゃん刈り」。小6で野球を始めてからは「丸刈り」が定番で、野球をやめてからは短めの「伸びかけ」でした...


08 家族の反対
「美容師になりたい」譲らず 近くの寺の住職が助け舟 美容とは無縁だった私が突然、美容師を志す—。自分でもまったく予想していなかった展開でしたから、「美容師になりたい」という私の告白に、家族の反応は驚きと反対一色でした。 当時、美容師は女性の仕事という見方が一般的で、私や家族...


09 美容学校入学
学ぶ楽しさ—充実の日々 トップの成績取れるまでに 1972(昭和47)年4月、東京・渋谷の「国際文化理容美容専門学校」進学のため、私は電車を乗り継いで一人で上京しました。親の反対に遭いながらも、自分の信念を押し通して実現した美容学校進学でしたが、この時は期待より不安や心細さ...


10 就職活動
校長に「店の紹介を」直談判 有名な実力美容師の店へ 国際文化理容美容専門学校に入学し、夢中になって学んでいるうちに冬になり、早くも就職活動の時期がやってきました。 現在は美容学校で2年間学び、規定の課程を修了すれば国家試験が受けられます。しかし、私が通っていた当時は1年制で...


11 インターン時代
シャンプーの特訓厳しく 5カ月目に店長から「合格」 2000年ごろ、テレビドラマなどの影響で「カリスマ美容師」という言葉が流行し、美容師は「かっこいい職業」というイメージが広がりました。私が働き始めた1970年代当時の美容界は—というと、昔ながらの徒弟制度が色濃く残る職人の...


12 「ヘルプ」の仕事
プロの技術を間近で学ぶ 先輩から「盗む」難しい習練 インターン時代、5カ月かけて店長からシャンプーレッスンの「合格」をもらった私の前に現れた次の試練は、接客する錦織光弘先生や先輩美容師の後ろに立って助手として動く「ヘルプ」の仕事でした。プロの技を間近で学ぶことのできる貴重な...


13 アシスタント時代
「向いていないかも」と不安 お客さまの応援が励みに 1年のインターン期間を終えて国家試験に合格した私は、ようやく美容師としてスタート地点に立つことができました。アシスタントへと立場が変わり後輩もできましたが、急に仕事の内容が変わるわけではありません。相変わらず掃除や洗濯など...


14 海外行きのチャンス
先生の助手としてパリへ モデルの金髪を初ブロー 1974(昭和49)年、美容師1年目の秋に訪れたチャンス。それはパリで開かれる美容業界の国際見本市でデモンストレーションを行うことになった錦織光弘先生が、同行するアシスタントに私を選んでくれたことでした。...


15 コンクール荒らし
店には内緒で大会に出場 念願の全国優勝を果たす パリで開かれた美容業界の国際見本市に、アシスタントとして同行するチャンスを手に入れたものの、ステージでいきなり金髪のモデルのブローをすることになり、質感の異なる金髪を何度試みても仕上げることができなかった私。この「失態」から立...


16 「一真」を名乗る
大会出場用につけた名前 美容師としての情熱刻む 突然ですが、私の本名は「一彦」といいます。「一真」は、勤めていた東京・大井町の美容室に隠れて美容コンクール(大会)に出場する際、「本名だと店にばれてしまう」とつけた大会用の名前でした。...


17 原宿で店長に
美容師4年目での抜てき 馬車馬のように働く日々 1970年代半ば、私が働き始めた頃の原宿はおしゃれに敏感な人が集まる街というイメージの一方、八百屋や花屋など昔ながらの個人商店もあり、どこかのんびりとした風情が残っていました。それが数年後、「竹の子族」の流行を機に人の流れが絶...


18 店は大繁盛
街に人を呼ぶ仕掛け学ぶ 技術第一世界大会目指す 原宿の美容室店長となり、無我夢中で働いていた20代半ば、お客さまを介してファッションビル「ラフォーレ原宿」の初代館長を紹介されました。その人は、若者に人気が出始めていた原宿の「ブティック竹の子」の服を流行させて、「大勢の若者を...


19 パリで土下座
世界大会に出場果たすも 競技直前 理不尽な「力」が… 1979年、私はパリで開催される世界大会への出場を決めました。前年のCACF(現・FNCF フランス理美容連盟技術芸術院)主催のアジア大会で入賞し、世界大会に出場する日本代表3人の1人に選ばれたのです。美容師を志した時か...


20 退職、独立へ
新人育成巡り社長と亀裂 自分のやり方で—と決意 パリの世界大会で、日本の大会関係者からの理不尽な要請に従った上、土下座までした私。土下座は高校の野球部時代、「しごき」で散々やらされていたので、それほど抵抗はありませんでした。ただ、この出来事以来、私の中で何かが変わりました。...
bottom of page