寂しかった友達との別れ 先生の影響で絵が面白く
私は1949(昭和24)年、父武夫(たけと)、母節子の次男として木曽の上松町で生まれました。七つ上に姉、三つ上に兄がおり、末っ子の私は大事に育てられました。
父は営林署に勤める国家公務員で転勤も多く、そのたびに家族で引っ越しました。私が4歳まで住んだ上松町の営林署官舎は、玄関のドアノブが真ちゅう製で重く、子どもの弱い力でようやく回して開けていました。
4歳の時、上松町から飯田市に引っ越しました。飯田市に住んでいたのはわずか1年半ほど。幼稚園の担任だった田中先生は非常に優しい先生で好きでした。お別れしてから60年も後に、小布施町で私の美術館がオープンしたのを知った先生は電話をくれました。私のことを覚えていてくれたのかと、とてもうれしく思いました。
その後、大桑村に引っ越し、野尻小学校(現大桑小学校)に通います。夏休みの宿題で楽しく取り組んだのは絵日記です。当時から絵の才能が開花して上手だったというわけでもありませんでしたが、その日あったことを絵や文章で伝えるのが子ども心に面白かったのです。
野尻小学校で担任だった北原先生はバイオリンやピアノを弾く音楽が達者な先生かと思えば油絵も描き、走れば足が速くて格好良い先生でした。油絵は小学校で使う水彩絵の具よりも厚く塗ります。大人が描く本格的な絵や油絵独特の匂いに強い憧れを持った私は、北原先生のまねをして水彩絵の具を厚く塗りました。しかし、水彩絵の具は厚く塗るようなものではありません。家に持ち帰る時に画用紙を丸めると、乾いて固まった水彩絵の具がボロボロと剥がれ落ちてしまったことをよく覚えています。北原先生の影響で絵を描く面白さを知り、のちにイラストレーターの道を進むことにつながったと思っています。
4年生の時でした。転校が決まった私に近所のおばさんが絵の具をプレゼントしてくれました。本当にうれしかったですね。通常のサイズは1本10ccですが、もらった絵の具は30ccの太いタイプ。周りの子どもは30ccの絵の具を持っていなかったので誇らしく思いました。身近で簡単に手に入るような物ではなく、どこで買ってきてくれたのか今でも不思議です。絵の具がなくなると入れ替えながら、箱だけは高校生まで使いました。
その後転校したのが木曽町の木曽福島小学校。大桑村には約3年半いました。大桑村には楽しい思い出がたくさんあります。みんな、けんかしながらも仲良くなった友達ばかりでした。そのため、木曽町に引っ越した直後は「大桑村は良かったな。また戻りたいな」と寂しくなったものです。
次に通ったのが長野市の芹田小学校です。芹田小学校で担任だった宮坂先生は絵が好きで、同級生を椅子に座らせると、クロッキーと呼ばれる線画を1分間で描いたものです。当時クロッキーは珍しく、「長野市の美術教育は違うな」と感じました。芹田には営林署の官舎のほかにも郵政省や国鉄(現JR)の官舎もあり、比較的転校生が多くいました。そのため、私でもすんなり輪の中に入れました。小学校時代はさらに城山小学校に転校し、半年ほど在籍していました。城山小学校を卒業しましたが、結局校歌は覚えられませんでした。
転校してすぐの頃は周りの雰囲気をつかみ、人間関係を知ろうと様子をうかがうような子どもでした。積極的な性格だった私は、周囲の様子が分かると、友達と仲良くなれるタイプでしたが、仲良くなった友達と別れるのは寂しく、転校はとても憂うつでした。今から思うと約3年半を過ごした野尻小学校が一番楽しかったです。
聞き書き・広石健悟
2024年7月20日号掲載