叔父が藤屋継ぎ母と結婚 2歳前の私が戸籍筆頭者
1942(昭和17)年、戦争の真っただ中の8月の暑い日、私は藤屋の居宅で生まれました。父は藤屋14代目の藤井文三=当時30歳、母はツキ=同24歳。両親にとっては初めての子どもでした。私は、低出生体重児、いわゆる未熟児でした。お産婆さんから、「この子は小さくてあまり生き延びられません」と告げられていたそうです。その頃いたばあやの話によると、父は毎日、赤子の私を裸にして日光浴をさせ、マッサージを試みてくれていたそうです。それが良かったのか、何かほかのご加護があったのか、私は元気で生き延び、80歳の今日を迎えています。きっと両親の深い愛情のたまものであったのだろうと感謝しています。
父は慶応大学を卒業後、三つ違いの兄で早世した13代正五郎の跡を継いでいました。天文好きの父は、大工さんに頼んで、屋上に天体望遠鏡を置いた天文台を造ってもらったそうです。私は自分の名前の「奎」をずっと珍しい漢字だと思ってきました。40歳を過ぎた頃に、中学時代の友人が「大辞林」に載っていたと「奎」の意味を書き取ったメモを渡してくれました。「奎」は、中国の天文学・占星術に出てくる漢字であり、それでようやく父の天文好きと重なり、「なるほど」と謎が解けてふに落ちたような気持ちになりました。すると父は母の名前「ツキ」に引かれたのかどうか。偶然のなせる業だったのでしょうが、そこにまた不思議な縁を感じました。
しかし、父は私が2歳になる前、44(同19)年1月に32歳という若さで短い生涯を終えました。祖父幸蔵は1925(大正14)年に藤屋の建築を済ませてから1年後に亡くなり、その長男の13代正五郎も36(昭和11)年に27歳で他界。その8年後、正五郎の弟であり、私の父の文三が亡くなったのです。
12代の妻で、13、14代の母親、つまり私の祖母である甫(もと)は、大正時代の藤屋の繁栄から、戦争へと進む時代に痛手を被り、跡取りが次々に亡くなるという大変な苦労をしたと察せられます。
そこで文三の弟、常夫が早稲田大学在学中であったにもかかわらず呼び戻されて、15代の当主となりました。ただこの時、戸籍筆頭者は文三の長女で2歳にも満たない私奎子でした。常夫は奎子の後見人となり、文三の妻で私の母であるツキと結婚したのです。
ずっと後になって、私が常夫さんに「無理やりツキさんと結婚したの?」と疑問を投げかけると、「いや私もツキが好きだったよ」と答えが返り、なぜかほっとしました。
千曲市稲荷山出身の元衆議院議員で、農相などを歴任した倉石忠雄先生(1900〜86年)は、藤屋を定宿にしていました。父が亡くなった時には、ご自分にお子さんがいなかったこともあってなのか、「奎子を養女にしたい」と言われたと聞きました。常夫さんは「私が育てますので」とお断りしたとのことです。
倉石先生は、31(昭和6)年ごろから亡くなるまで約50年にわたって、月に数回、藤屋に宿泊されていました。先生にも不遇の時代がありましたが、祖母甫は毎日のように新しい下着と板前に作らせたお弁当を番頭に持たせて先生に届けたという話も聞きました。養女の一件も、藤屋を定宿としてくださっていたのも、その恩を感じていらっしゃったのかもしれません。予約が取れないときは、地元近くの上山田に宿を取っていらっしゃったそうです。
聞き書き・中村英美
2022年11月19日号掲載