幼稚園の先生に褒められ 自分は絵が得意なのかも
父の小山一夫は、篠ノ井山布施村山の農家の長男で、私が2歳ごろまで、祖父母やきょうだいのいる村山の家で一緒に暮らしていました。父は中部電力に勤めていて、通勤が大変だったことから、善光寺下の花咲町に引っ越しました。農家の大所帯から、父と専業主婦の母、4歳上の姉と私の4人の生活は大きな環境の変化ですが、小さかった私には当時の記憶はありません。
姉は色白で目がぱっちりしていてかわいらしい女の子でした。一方、私は肌が浅黒くて丸々した体格で、写真を見るとわれながら笑ってしまいます。姉の隣で満面の笑みでうれしそうにしていて、きっと自分のことをかわいいと思っているのだろうな、本当にかわいがられていたんだなと思います。この花咲町での暮らしは1、2年ほど。間もなく北条の分譲住宅に引っ越し、高校を卒業して上京するまでは、そこに住んでいました。
幼稚園には父が自転車で毎朝送ってくれました。ある日幼稚園でお絵描きをしたら、ベテランの先生から「りえちゃんの絵は宝船の絵だね」と、みんなの前ですごく褒められたことがあります。
「宝船なんて知らないし、そんなつもりで描いたんじゃないのに」と思いましたが、同時に「私って絵がうまいのかな」と。自分は絵が得意なのかもしれない—と思った、これが最初の記憶です。
姉は友達と外で、それこそ跳んだりはねたりして豪快に遊んでいました。ときどき一緒に遊ぼうと付いて行くのですが、小川を横切ったり、橋を駆け足で渡ったりして、友達とどんどん先を行く姉たちに置いていかれることがよくありました。
私は外で遊ぶよりも家で絵を描いたり人形遊びをしたりしている方が好きでした。新聞の折り込み広告を取っておいて、広告紙の裏によく絵を描いていました。当時は、少女漫画誌のグラビアにお姫さまの絵が載っていたので、それをまねして描いていました。
父も絵が好きで、私が子どもの頃は仕事の出張先の風景をクレヨンで描いてきて、額に入れて自宅の壁に掛けていました。自宅のそばにある守田神社に、父と一緒にスケッチに行くこともありました。そのときに父から、「影だからって色がグレーだとは限らない。青やいろいろな色が入っているんだよ」と言われたことが強く記憶に残っています。伝統的な昔の絵だと、影は黒や茶色っぽい色彩ですが、いわゆる印象派は、光の美しさを表現するときに、影の中にきれいなブルーを入れて、革命的な画面作りをしました。どこで得た知識なのか分かりませんが、父もクレヨンで描きながら、そんなことを意識していたのかもしれません。
母も絵が上手でクレヨンで絵を描いてくれました。洋服を縫ったり、セーターを編んだりするのも上手。既製服はあまりない時代で、そんなにおしゃれな服を着る子どもはいませんでしたが、母が作る服はちょっとおしゃれ。白いブラウスに刺しゅうを入れてくれたりするのがすごくうれしくて、それを着ていると誇らしい気持ちになりました。
私は「タミーちゃん」という着せ替え人形を持っていましたが、市販の着せ替え服は高くてなかなか買ってもらえませんでした。でも、母に「こういう服を作って」とお願いすると、レース付きやビロード生地の服を縫ってくれました。裕福な家にありそうな縫いぐるみを買える経済力はわが家にはありませんでしたが、母は余った布で縫いぐるみを作ってくれました。
とりわけ貧しいわけではなく、かといって裕福でもなく、平均的な庶民の家庭でした。それでも、きれいなもの、おしゃれなものをたくさん作ってもらい、今思うと幸せな幼年期を過ごすことができたと思います。
聞き書き・松井明子
2023年6月10日号掲載