top of page

03 中学・高校時代

美術教諭から褒められる 高3の春 美大進学を決意

 1961(昭和36)年、私は柳町中学校に入学しました。当時、全生徒数2千人規模のマンモス校で、生徒は部活動を自由に選べませんでした。私は当時人気のバレーボール部に入りたかったのですが、思い通りにならず、バドミントン部でした。

 美術は得意で、生徒の作品から選ばれる運動会や読書週間向けのポスターは、3年間、大概は私の作品が選ばれ校内に掲示されていました。私は美術部にも入りましたが、どちらかというと美術の授業の方が多くの思い出が残っています。授業で教わった吉沢先生と相性が良かったからでしょう。

 砂岩という岩石を彫刻刀で削って顔を作る授業では、友人たちの多くがレリーフのような平面的な顔にするところ、私は立体的な顔に仕上げました。吉沢先生からは「いいぞ、藤岡」と言われ、うれしくなりました。

 モビールといわれる、天井からつるす飾りを作ったときのこと。私は、厚さ1センチほどの木板を魚の形に切り、目玉の箇所は切り抜いて、そこに別に作った目玉を付けて動くようにしました。さらに魚のおなかに糸と針金をぶら下げて小さな魚を何匹もぶらさげました。

 そして魚の片面は濃いブルー、もう片面はグリーンに塗り分け、両面ともおなかにかけてだんだん色が白くなるように表現しました。吉沢先生は「普通は一色なのに、藤岡は色を変えている。ぴかぴか光って魚みたいだ」と褒めてくれました。

 中学生の時も引っ越しがありました。3年生に進級する頃、営林署が上松に移転したのに伴い、私たち家族も箱清水の営林署官舎から上松の官舎に引っ越しました。そこに半年住んだ後、営林署のすぐ近くに新築した自宅に移り住みました。

 高校は長野吉田高校に進学。部活動は2年生までバレーボール部でした。美術部には入りませんでした。画家は天才がなるものだと考えていたので、美術に真剣に取り組む気持ちが起きなかったのです。

 ところが3年生になった春、美術大学への進学を決意します。きっかけは、一つ下で遊び友達だった営林署長の娘のお姉さんが武蔵野美術大学に進学したのを知ったことです。私は、「どうしたら美術大学に入れるのですか」と聞きました。すると、「油絵科は石こうデッサンと油絵、日本画科は石こうデッサンと水彩画、デザイン科は石こうデッサンと水彩画と平面構成の試験がある。合格するには、そのための勉強をするといいよ」とアドバイスをくれました。

 「自分も絵の世界で頑張りたい」と思った私は、お姉さんが通った南千歳町の岡沢絵画研究所という絵画教室に入りました。そして、授業が終わるとほぼ毎日、約3時間、デッサンや水彩画に取り組みました。

 やりたいことが見つかり、私は充実した気分になった一方、美大受験まで時間もなかったので必死でした。

 「1日最低15分は描け。スケッチブックはいつでも開いておけ。そして筆や鉛筆を持てるようにしておけ」という岡沢先生の言葉は、プロになってからも守り続けています。

 聞き書き・広石健悟


2024年7月27日号

bottom of page