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03 物心ついた頃

番頭さんら従業員20人 皆元気が良くて働き者

右から順に2歳ころの私、祖母甫、義父常夫、妹れい子、母ツキ

 最も藤屋が栄えた大正時代から太平洋戦争開戦くらいまでは家族の者は仕事に携わらず、夏は蓼科の別荘へ、冬は雪山のスキーや温泉へと余裕のある暮らしをしていたそうです。

 私が物心ついてきた終戦直後の藤屋はまだ雇人も多く、支配人を中心に5、6人の番頭さんと10人くらいの女中さんがいました。番頭さんたちはお客さまが見えると、お客さまの靴を片付け、荷物を持って部屋まで案内したり、布団を敷いたり、玄関や庭の掃除、風呂の準備などのほか、毎晩1人は店で床をとり、朝方参拝のお客さまを善光寺までご案内する夜行番(やこうばん)の仕事をしていました。

 女中さんは若い人が多く、ほとんどが飯山方面から花嫁修業を兼ねて住み込みで来ていました。皆元気が良くて働き者で、ゆきちゃん、ことちゃん、のぶちゃんなど、藤屋だけで通用する愛称で互いを呼び合っていました。従業員専用の大部屋があり、真ん中には大きなこたつ、周りには着物がかかっていました。隣の板張りの部屋には、進駐軍からもらい受けたという鉄製のベッドが向かい合って十数台並べられ、1人1台がそれぞれの領分でした。

 入ったばかりの人は見習いとして先輩について仕事を覚え、まず私たち家族の茶の間でお客さまの接待をするところから始まりました。この係が終わると次は3階の宿泊料の低い部屋の係、次は中ほどの係、ベテランになると一番奥の庭に面した特別室の係へと移っていきました。昔は時間制ではなく、一日の勤務でした。それでも時間があると、すぐそばの東之門町にあった長野演芸館に映画を見に行ったり、親しくなったお客さまとこっそり遊びに行ったりしていたようでした。

 貸与の着物がありましたが、特別室の係になると、例えば代議士の倉石忠雄先生や映画監督の木下恵介先生など大事なお客さまをお迎えするために自分で着物をあつらえることができ、皆それを楽しみに働いていました。

 私は彼女たちにかわいがってもらいました。一つ忘れられない思い出があります。「お母さんからお菓子をもらって遊びにおいで」と言われ、茶の間から、母や祖母に黙ってお菓子を持ち出して従業員の部屋に行きました。私は「よく持ってきたね」と褒められ、「はい、歌ってください」と促されると、皆が囲むこたつの上でその頃はやっていた歌謡曲を歌いました。おませだった私は「上手! 上手!」と拍手され、気持ちよかったに違いありません。すると「またもらって来てね」と声を掛けられるのです。今になればほろ苦い思い出です。

 藤屋には総勢20人以上がいたので誰かが相手をしてくれたのですが、旅館が忙しい時には放っておかれ、そんな時にはいつもお向かいのお茶屋「喜多の園」さんに遊びに行きました。先々代は、自分の子が成人していたこともあり、私のことを特にかわいがってくれました。

 その頃のお店には畳敷きの広い部屋があり、大勢の女性が座って、お茶を量って筒状の紙袋に入れて底を手のひらでポンポンとたたいて整えていました。空いている場所が私の遊び場ででんぐり返しをしたのを覚えていますが、おじゃまだったことでしょう。遅くなれば、夕食をごちそうになり、お風呂まで入って、ようやく家に寝に帰るというようで、私にとって心温まる思い出です。

 聞き書き・中村英美


2022年11月26日号掲載

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