元五輪選手の指導受け 年間100日以上は山に
懸命に受験勉強に取り組み、慶応義塾大学経済学部に現役で合格しました。クラブ活動は、憧れの競技スキーがやりたくて、伝統のある「ディモンズスキー倶楽部」に入部しました。当時の部員は50人ほど。部員には、田園調布のプール付きの家に住んでいる人や、駐米大使の娘など、私とは住む世界がまったく違うような人たちがいました。
入学した1968年当時は、ちょうど学生運動が盛んでキャンパスは騒々しく、1、2年生の時には授業ができるような状況ではありませんでした。それを良いことに、春、夏、冬と山に雪を求めてトレーニングに行っていました。山に行かない時も、自然豊かな環境が整っている慶応大日吉キャンパスでトレーニングに励みました。3、4年の頃には授業はありましたが、スキーに熱中してほとんど授業に出ず、いまだに試験の夢でうなされるくらい落ちこぼれの学生でした。
冬は志賀高原と白馬、夏は野尻湖で合宿をしました。夏合宿の最後には、18・5キロのコースを走る野尻湖一周マラソンがクラブの恒例。私は体力に自信があり、2年生の時はぶっちぎり(1時間5分)で優勝しました。自分なりに一生懸命競技スキーに打ち込み、3年生の時はキャプテンを務め、卒業後も3年ほどクラブの監督をやりました。
アルペンスキーの元オリンピック選手見谷昌禧(まさよし)さんと井上恵三さんの指導の下、大会で勝つためには年間100日以上は山でトレーニングしないと上達できないので、どうしてもお金がかかります。一度父に呼ばれて、「お前はきょうだいのなかで一番お金を使っている。何でなんだ」と怒られるほどで、申し訳なく思いました。
大学4年になって、大手スーパー「ダイエー」への就職が内定し、私は夏休みを利用して憧れの米国とヨーロッパに60日間ほど一人旅に出かけました。
父に「アメリカとヨーロッパに行きたい」と伝えたところ、「お金は出すが、アメリカの流通業やレストランの事情など、ビジネスに関するリポートを書いて送るように」という課題を出されました。
当時、ベトナム戦争の最中で、反戦運動のヒッピー全盛時代。長髪で、パンタロンをはいたファッションの若者が米国中にあふれていました。私もその影響を受けて、髪を伸ばしたり、ひげを生やしたりしました。
自然豊かな米国は、ワイルドに川に飛び込んで遊ぶようなアウトドア好きの若者が多い印象でした。マリファナを吸っている学生も多くいて、びっくりしました。大きな社会問題になっていました。
私は、米国全土とメキシコ、カナダを格安で周遊できる長距離バスの「グレイハウンドバス」で旅をしました。まず、サンフランシスコから西海岸を北上してオレゴン州へ。そしてカナダに入り、バンクーバー、カナディアンロッキーのバンフ、カルガリーなどのスキー場方面に行き、シカゴ、ニューヨーク、ワシントンDCと回りました。ホテルは安く泊まれるYMCAを主に利用しました。
サンフランシスコのバス停で道を尋ねた女子学生が「時間があれば連絡ください」と連絡先を教えてくれ、オレゴン州ポートランドにあるご家族と住む自宅に泊めてもらったこともあります。森のある美しい自然に囲まれた場所で、素晴らしいところだと思いました。
4年前にオレゴン州ポートランド近郊の食品工場を買収しましたが、この旅行で訪れた時の良いイメージが、私の中に鮮明に残っていました。
聞き書き・松井明子
2021年3月6日号掲載