学校で描き帰宅後も描き そんな毎日も当たり前に
1973(昭和48)年、長野西高校を卒業した私は、東京・西池袋にある美術大学専門の予備校「すいどーばた美術学院」に入りました。東京芸術大学のみ受験し、不合格だったからです。芸大は1浪、2浪して入るのが当たり前だったので、浪人生になることに対しての悲しみや暗さもなく、これからは毎日絵が描けるんだと、むしろわくわくして希望に燃えていました。
豊島区の西武池袋線椎名町駅近くのアパートに西高美術部の友人と一緒に住みました。予備校まで歩いて15分ほどでした。風呂はなく、共同トイレでした。当時、日本は高度経済成長期でしたが、風呂なしのアパートが普通で、初めて銭湯を体験しました。100円あれば、銭湯に入れて、お風呂上がりに缶入りコーラを買ってもお釣りがくるような物価でした。
予備校では、芸大の大学院生などが講師をしていました。私のクラスの担任の先生は物静かでいかにも芸術家の雰囲気を漂わせていて、すごく憧れていました。油絵を学ぶ生徒たちがA・B・C・D四つくらいのブロックの中に各3クラスずつくらいあり、1クラスに20人くらい。1クラスの中では女子は3、4人くらいで、男子が大半でした。
私は女子高出身だったので、先生に連れられて男子と飲み会に行って盛り上がったりするのが新鮮で楽しみでした。みんな18歳から20歳くらいの青春時代なので、恋愛だとかで浮わついてしまって、授業を休んで先生に怒られる人もいました。
毎日、夕方まで授業があって、デッサンと油絵を描き、授業の後も学校に残って課外のクロッキー教室で描いていました。予備校に行って描いて、家に帰ってからも描いて。最初のうちは、ずっと描いていられてうれしい気持ちでした。そんな毎日もだんだん当たり前になってくるものです。
生徒の中にはすごく上手な人もいて、そういう人は見て分かります。私の場合、形をきっちりと写実的に描ける能力はありましたが、油絵の表現となるとただきっちり描いても面白くも何ともありません。感覚的にぱっと描けるような才能は全然ありませんでした。
予備校では絵を審査・採点されます。高い点を付けてもらえることはありませんでした。デッサンはうまくできていたと思いますが、どうすれば良い絵になるのか、ツボが全くつかめませんでした。
現役の時と同じく1浪目の時も芸大しか受験しませんでした。2度目の不合格が分かってもすぐに気持ちは切り替えられました。担任の先生は5浪くらいして芸大に入ったような伝説の人だったので、私立の美大を受けようという気は全然ありませんでした。両親も「2浪していいよ」という感じでした。予備校の仲間もみんな落ちていたし、精神的ダメージはなかったです。
そんな1浪の1年が終わろうとしていた春休みのある日の夕方、住んでいたアパートが火事になってしまいました。周辺でもそれまでいくつかぼや騒ぎがあったようです。
2階にある自分の部屋にいたら、外からバタバタッと音が聞こえて、何かと思ってドアを開けると、ぼわっと煙が入ってきました。あっという間に煙が充満してしまって、慌てて窓を開けて手すりのようなところにつかまり、1階のひさしに足を下ろして、何とか逃げることができました。
放火による火災で、アパートは全焼してしまいました。幸いけがはしませんでしたが、長野から持ってきていた思い出の写真や、1浪の年に描いた絵が全て焼失しました。衝撃的な出来事でした。
聞き書き・松井明子
2023年6月24日号掲載