フリーランスに理解得る 下積み時代 信頼積み重ね
後に妻となる美鈴と出会ったのは、美大受験のために通っていた岡沢絵画研究所でした。私が吉田高校3年、彼女は長野西高の3年でした。お互いに知ってはいましたが、強く意識し合う間柄ではありませんでした。
大学進学後、東京にいる岡沢絵画研究所出身者同士で一緒に遊ぶ機会がたびたびあり、その中に彼女もいました。お付き合いをするようになったのは私が大学4年生の時。美術系の短期大学を卒業後、デザイナーとして会社勤めをしていた彼女とは、同じ美術の世界にいて、何より気が合いました。
結婚したのは1975(昭和50)年、私が大学を卒業してすぐ、25歳でした。中野から練馬のアパートに引っ越し、2人の生活が始まりました。
私がフリーランスのイラストレーターになると決めた時、彼女は私の決断に理解を示してくれました。仕事が軌道に乗るまで妻の収入に頼ることも承知してくれました。私は、ぎりぎりの生活になるかもしれないけれど、イラストレーターとして実績と経験を積もうと考えました。
ただ、大学を出たばかりのイラストレーターに仕事があるわけではなく、自ら仕事を取ってこないといけません。私は、広告会社でデザイナーとして働いている大学の同級生を探し出して営業して回りました。名前と顔が一致しないような同級生に対しても、「やー、久しぶり」と親しげに話して相手の懐に入り込むように努めました。
同級生は裁量権があり、私に仕事を発注してくれました。フリーの私を応援したいという気持ちもあったと思います。実績のない私に発注してくれた同級生には感謝してもしきれません。
営業などで外出する時以外は、アパートで営業用の作品を作っていました。妻は会社勤めで、私一人だけです。私は自分の昼食はもちろん、朝食や夕食、それに妻のお弁当を作ることもありました。外食は控え、居酒屋へ行く頻度も大学生の頃より減りました。借金こそありませんでしたが生活に余裕はなく、たまに生活費を稼ぐため、POPと呼ばれる販売促進用の広告製作のアルバイトをしました。これはデザイナーに近い仕事で、時給で報酬をもらえるのはありがたかったです。
この頃はイラストレーターとしての下積み時代でもありました。発注者である広告会社だけでなく、スポンサーの要望にかなう作品を描いて納得してもらわないといけません。自分では気づかなかった指摘を数多く受け、自分には何が足りないのかを嫌というほど気づかされました。
それでも、段々と信頼を積み重ねていくことができました。例えばある時、当時主流だったスーパーリアルと呼ばれる、スニーカーの生地の縫い目や光の当たり具合まで描く写真のような絵の仕事を請けました。はじめは慣れず、スポンサーから大幅なやり直しを指示されましたが、気持ちを切り替えて取り組みました。やがてほかの技術も身に付き、ある程度の仕事をこなせるようになりました。イラストレーターになって1年半ほどたって少しずつ報酬の高い仕事も請けられるようになり、ポスター1枚で報酬が15万円という仕事もありました。
イラストレーターになって3年たった頃、妻から「そろそろ子どもが欲しいので、(台所と6畳と4畳半の)狭いアパートを出たい」と言われました。収入は妻と同程度に増えていました。妻から初めて子どもという言葉を聞いて、子育てのための風呂付き3DK探しが始まりました。
聞き書き・広石健悟
2024年8月24日号掲載