先輩・小松と恋愛に発展 共に現代アートの表現へ
1975(昭和50)年、憧れの東京芸術大学に進学しました。2浪目の1年間、予備校の私のクラス担任だった小松良和もまだ芸大の研究生として在学中で、予備校で共に学んだ多くの仲間も入学したので、入学当初は予備校の延長のような感覚でした。
当時の私にとって、6歳年上の小松はとても大人に見えました。また画家として尊敬していました。小松は国立市に一軒家を借りていて、みんなで彼の家に遊びに行ったりもしました。予備校時代は単に先生と生徒の関係で、私も小松も恋愛感情はありませんでしたが、大学の先輩と後輩の間柄になり、小松はそれまでとは違う感情を抱いたようで、熱心にアプローチをしてくるようになりました。
小松のことは尊敬していましたし、情熱にほだされ、お付き合いを始めました。そして、2年生の頃から小松の家で一緒に暮らすようになり、芸大の同じクラスの人たちから「奥さん」と言われるくらい、私たちの間柄は知れ渡っていました。小松は付き合い始めた当初から「結婚しよう」と言いましたが、せっかく芸大に入ってこれからという時に結婚して小松姓になってしまっては、両親に申し訳ないという気持ちがありました。大学を卒業するまでは小山のままでいたいと申し出、婚約だけして、長野市にいる私の両親と、伊那市に住んでいる小松の両親が集まり、松本で結納の儀式を済ませ、正式に婚約しました。
一方で、小松は芸大でのアカデミックで保守的な表現に見切りをつけたかのように、研究生を中退してしまいました。小松は油絵科の優等生だったので、在籍していた研究室の担任である中根寛教授(後の美術学部長)からも将来を期待されていました。大学に助手として残る道もあったのですが、どんどん先鋭的な絵画以外の表現に傾倒していき、絵を描くのをやめてしまいました。
当時現代アートの世界で新しい潮流となっていた、インスタレーションという新しい表現を小松は始めていました。絵画や彫刻などのような、それ自体で完結している表現に対し、インスタレーションは、ある空間にさまざまなものをさまざまな形で設置することで成立する表現です。空間そのものがある世界観の表現となります。
小松の作品を傍らで見たり手伝ったり、小松と共に現代アートの作家たちと交流して、私も大きく影響を受けました。油絵が好きで2年も浪人して芸大に入ったのに、2年生からは芸大の先生の言うことに全然興味がなくなってしまい、絵を描かなくなり、現代アート系の画廊で作家の作品を見て歩き、自分の今後の表現を考える大学生活になりました。油絵科の同級生は55人いましたが、同じように新しい表現を目指す7、8人の学生たちが自主ゼミを始め、私も参加しました。それぞれで作品をつくり、芸大の構内で展示活動をスタートし、自主ゼミの仲間と銀座の画廊で写真のグループ展を開催したり、神奈川県民ホールでのグループ展に参加したりもしました。
そんなふうに、大学4年間のうちの3年間くらいは大学の外で、いろいろな作家と話したり、作品を見たり、自主ゼミで友達同士で語り合って切磋琢磨(せっさたくま)し、今まで見たことのない表現をやらなければいけないんだという気持ちで過ごしました。結果的に大学時代に残した絵画作品は、1年生の時に描いた習作的なものしかありません。
大学を卒業してすぐに入籍し、小松姓になりましたが、作家としてはずっと小山利枝子で作品を発表してきました。作家としてのアイデンティティーで、途中で名前を変えようとは思いませんでした。芸大受験時や大学在学中もずっと応援してくれた親のためにも、自分の出自にこだわりたい気持ちがありました。小松もそれについては当然のこととして受け止めていました。
聞き書き・松井明子
2023年7月8日号掲載