ロケ隊には全館貸し切り 藤屋総出24時間フル回転
私が小中学生だった昭和20〜30年代初頭、藤屋には多くの著名人が宿泊されました。中でも印象深いのは、木下恵介監督(1912〜98年)と木下映画のロケ隊の方々です。
木下監督は、景観が大好きだったという信州を舞台に十数本の映画を撮ったそうですが、このうち「破戒」(1948年)、「野菊の如き君なりき」(55年)、「風花」(59年)、「笛吹川」(60年)などの撮影は藤屋が宿舎でした。当時の社長で父の常夫さんは、熱心な木下ファンで、ロケ隊宿泊の時は、全館貸し切りにして使っていただいていました。長いときで1カ月、短いときでも10日間くらい、毎回100人くらいの人たちが入れ代わり立ち代わり滞在していました。
中学生だった私の記憶に残るのは、木下監督を筆頭に、俳優は田村高広さん、笠智衆さん、佐田啓二さん、高峰秀子さん、岸恵子さん、有馬稲子さんら。3、4人の助監督をはじめとする大勢の撮影スタッフが見えて大変なにぎわいでした。藤屋は総出で、早朝の先発隊の朝食から、お昼のおにぎり、夕食の準備と、みんな24時間フル回転で働いていました。当時の女将(おかみ)であった母のいち子さんの話です。
ある時、朝皆さんにお弁当を持たせて、やっと現場に送り出し、やれやれとみんなでほっと一息つくかつかないかのうちに、またドヤドヤと皆さんがお帰りになってきたそうです。いち子さんが「どうされたのですか?」とお聞きすると、「木下監督が雲の動きが気に入らないので、今日の撮影は中止と言われた」とのこと。「その時はみんなどっと疲れが出てもうがっくりしたの」とよく聞かせてくれました。日本映画の黄金時代、その頃の映画界の監督といえば、どんなわがままもかなったくらい、今では考えられないような世界だったのだと思います。
出番の待ち時間、いち子さんが笠さんに呼ばれてお部屋に行くと、実家がお寺であった笠さんは、いつも湯飲み茶わんのふちを箸でたたいて独自の節回しでとても楽しいお経を唱えて笑わせてくださったそうです。真面目な役のイメージとは違って、ひょうきんで面白かったと言っていました。
私は、ランニングシャツとステテコ姿でマージャンをしていた佐田啓二さんにお手紙やら、新聞やらをよくお届けしたこと、女優になりたての岸恵子さんがそれは美しかったこと、助監督さんたちが、今をときめく主演の男優さんにも負けないくらいハンサムだったことを覚えています。
毎回藤屋の一番奥の特別室に泊まっていらっしゃった木下先生は、夕飯になると、順番に助監督さんを呼んで、食事の相手をさせていました。
高峰秀子さんは、とても料理がお上手でした。当時はまだ藤屋の厨房の料理人も「サラダ」自体を知らない頃で、高峰さんは、板前さんにサラダとドレッシングの作り方を教えて、滞在中はずっとそれを召し上がっていました。
飯山出身の従業員ことちゃんは、木下監督の係をずっとしていました。木下先生は、何回かいらした後に、ことちゃんを大船(神奈川県)のご自宅の女中さんにスカウトし、連れて行かれました。ことちゃんは監督がお亡くなりになった後まで勤め上げ、飯山に帰郷する時に、藤屋にあいさつに来てくれました。
大分たって私が大人になってからのこと。木下監督が講演で犀北館にいらしたので聴きに伺いました。すると「大きくなったね」とお声掛けくださり、とてもうれしく、当時のことを懐かしく思い出しました。
聞き書き・中村英美
2022年12月24日号掲載