別世界—のんびりした生活 挫折感の半面解放感も
埼玉県入間市での小松との生活も落ち着き、私は個展開催やグループ展に参加するなど、作家活動を本格的にスタートしていました。しかし、病弱だった小松の父の体調が悪化し、心細いので長野県に戻って来てくれないか—と、両親から連絡が来るようになりました。心配した小松は、東京での作家活動に限界を感じていたこともあり、長野県に移り住む計画を立て、長野県の高校教員採用試験を受けて合格しました。赴任先は野沢南高校に決まり、小松は佐久市内の教員住宅に引っ越しました。
私は東京を離れてしまうと作家活動ができなくなるだろうし、ジュエリーの企画の仕事も続けたかったので、長野県に引っ越す気持ちには到底なれませんでした。そこで、小松とは別居して平日は入間で生活し、それまで通りの仕事と作家活動を、土日は佐久にいる小松の元に通うという、2拠点生活をすることにしました。
会社がある秋葉原までは、入間の自宅から片道1時間半ほどもかかります。作品制作のために広い家を借りたはずが、残業もあり、家に帰ってくると疲れ切って制作する気力も残らないほどでした。それに加えて、週末は電車を乗り継いで入間と佐久を行ったり来たりという無理をした結果、疲労がたまって体調を崩して会社も休みがちになり、全てが中途半端な状況になってしまいました。
自分の中で折り合いをつけることができずに始めた入間と佐久の2拠点生活でしたが、結局約半年で断念。入間の家を引き払い、1981年、小松のいる教員住宅に引っ越しました。東京の喧騒(けんそう)の中で忙しく活動していた生活から、周囲を田んぼに囲まれた、静かな郊外の教員住宅での暮らしになりました。東京の生活で心身が疲れ果てていたこともあり、大きな挫折感を抱えた半面、人生をリセットしたような解放感もありました。
同じ教員住宅に住んでいた、若い先生や奥さんたちは良い人ばかりで、作家同士のひりひりするやり取りや、企画の仕事の厳しさから離れ、温かい人たちとの交流に癒やされました。失業保険をもらいながら職業訓練所の洋裁コースに通うようになり、同世代の女性たちと、楽しみながら洋裁を習いました。
それまでは1時間半も満員電車に揺られて通勤し、頑張って作品を発表したらものすごい批判にさらされて…と、ストレスの塊を抱えたような日々でした。それが田んぼの中を自転車で訓練所まで通うというのんびりした生活になり、時間も空間も別世界で、東京での表現についての問題意識が、すごく遠くのことのように感じられました。それでも東京での個展を続けていました。
ところが、その年のうちに小松の父が亡くなり、小松は一人で暮らすことになった母が心配になり、重点人事にかけてもらい、新年度から、伊那の実家から通える塩尻市の塩尻高校(現・塩尻志学館高校)に赴任が決まりました。
ところで、私は長野に戻るまで、自分の人生の中から子どもを産む選択肢を排除していました。子どもができてしまったら作家活動ができなくなると思っていましたし、そもそも子どもが好きではありませんでした。しかし、時間の流れが東京とは全く違う所に来て、子どもを産みたいという気持ちが自然と芽生えてきました。義父の死に直面したことも新しい命を招き入れたいという心境になる大きな一員であったように思います。
妊娠が分かった頃にはもう寒い季節になっていて、つわりがひどく、切迫流産のおそれがあるとも言われ、あと2、3カ月で修了だった訓練所は途中でやめることになりました。そんな中で東京での二人展もしましたが、年度末の引っ越しの頃には安定期に入っていました。
聞き書き・松井明子
2023年7月22日号掲載