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08 家族の反対

  • 2022年3月5日
  • 読了時間: 3分

「美容師になりたい」譲らず 近くの寺の住職が助け舟

高校3年生の冬、スキーを楽しむ私

 美容とは無縁だった私が突然、美容師を志す—。自分でもまったく予想していなかった展開でしたから、「美容師になりたい」という私の告白に、家族の反応は驚きと反対一色でした。

 当時、美容師は女性の仕事という見方が一般的で、私や家族にとって、そもそも美容は遠い世界でした。「男の美容師なんて聞いたことがない」「泥んこで遊んでいたお前が、女の人の髪を触る仕事をするなんて考えられない。無理だ」。両親や姉たちはそう言って、取り付く島もありませんでした。

 それまでの私なら、家族に反対されたら引き下がったかもしれません。しかし、この時の私は一歩も譲りませんでした。

 「立派な美容師になって活躍したい」「いずれ男の美容師が増える時代になる」。家族を説得するため、そう口にすればするほど、美容師になるという気持ちが強く固まっていったような気がします。

 初めて自分から「やりたい」と思えた仕事が美容師でした。「美容雑誌に載っていた、海外で活躍する男性美容師のようにいつか海外に行きたい」「努力次第で自分もチャンスをつかむことができるのではないか」という淡い期待もありました。「(美容師になって)負け続けてきた人生を変えたい」という思いで、必死でした。

 経済的に苦労した両親は、私が手に職をつけて、地元で堅実に働くことを望んでいました。特に父からは「食いっぱぐれがないから」と、畳職人か大工になるように勧められました。

 でも、それだと一生地元から離れられません。なかなか進路が定まらなかった私ですが、長野から離れたいという思いは強く持っていました。一時期、悪さばかりしていたので周囲から「ろくでもないやつだ」という目で見られていると感じ、どこか遠くで一からやり直したかったのです。

 孤立無援の私に助け舟を出してくれたのは、近くの真興寺の住職でした。「おししゃん(和尚さん)」と呼ばれ、地域の人たちから大変信頼され、私も小さい頃からかわいがってもらっていました。

 相談に出向いた私に、住職は一言、「それはとてもいい。(美容師は)芸術的な仕事だ」と、言ってくれました。そしてそのままわが家まで来て、「本人がやる気なのだから協力してやってはどうか」と家族に助言してくれたのです。

 住職の言葉は家族を動かしました。父は渋々ながらも認め、「俺も20歳から10年間、戦争に行った。お前も10年、死んだ気でやってこい。その代わり絶対に泣き言は言うな」と、励ましてくれました。

 進学先は、自分で集めた、いくつかの学校案内の中から東京の「国際文化理容美容専門学校」に決めました。校名に「国際」がついていたので、「海外を目指す自分に向いている」と感じたからです。

 どの学校が良いのか判断する材料がない中でほぼ直感でしたが、この決断は間違っていませんでした。私はこの学校で、水を得た魚のように美容の勉強に熱中することができたからです。

 学校に願書を提出し、気持ちの上でひと段落したのはその年の暮れのことでした。初めてかけたパーマで失敗し、美容室に何度も通ううちに男性美容師の存在を知り、自分も美容師になりたいと思ってから数カ月しかたっていませんでした。

 熱中できるものがなく、将来への夢や目標も持てず、迷い、悩み、すさんだ思春期を送った私にとって、晴れやかな気持ちで年越しを迎えられたのは何年かぶりでした。

 聞き書き・村沢由佳


2021年10月30日号掲載

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