自治の生活を生徒主体で 三つのカルチャーショック
1957(昭和32)年、信大付属長野中3年生の私は、同級生と同じように普通に女子高を受験するつもりでいました。そんな私に、いち子母は、東京にある自由学園への進学を勧めました。諏訪出身のいち子母は発展家で、自分が入りたかった学校だったそうです。しかし、それはかなわなかったため、代わりに私を—と考えたようです。
「自由学園に行かせたいのだけれど」と言われました。私は多少なりとも驚いたとは思いますが、自然な流れで「イエス」と返事をしました。古めかしくて暗く思われた旅館の空気から離れたいという思いと、藤井家の本家の娘さん2人も行っていらしたので学園の話を聞いて興味を抱いていたこともありました。
試験は、自由学園になぜ入りたいのかや、自分のことについて書かせる作文と、数学というよりは、大きな桁の足し算と引き算をする算数、あとは学園生活に取り入れられていたデンマーク体操をした記憶があります。
晴れて合格をいただいた私は58年の春、7時間近く汽車に揺られて上京しました。自由学園は、池袋から西武線に30分くらい乗った田無町駅(現ひばりケ丘駅)から歩いて15分ほど。武蔵野の旧久留米町南沢(現東久留米市)にありました。
自由学園は1921(大正10)年、共にジャーナリストでクリスチャンの羽仁吉一・もと子夫妻によって女学校として、東京・目白(豊島区)に創立されました。著名な建築家フランク・ロイド・ライトさん設計の校舎(「明日館」と名付けられ、97年には国の重要文化財に)が有名でした。その後、学園は旧久留米村南沢に10万坪(33ヘクタール)もの土地を取得して34年に移転しました。
私が学んだ南沢の校舎はライトさんの弟子の遠藤新さんの設計でした。大芝生を前に体育館、その後方に大食堂があり、そこを中心にして両側に教室棟が広がるシンメトリー(左右対称)のすてきな校舎でした。広大な敷地に、ほかに講堂や寮があったり、男子部があったり、それまで見たことのない美しい景色が広がっていました。
当時の女子部は、中学1〜3年の普通科と高校1〜3年の高等科、その上に2年制の学部があり、500人が在籍していました。うち300人くらいは自宅から通学し、私のような地方や近郊の生徒など200人くらいは、学園内の二つの寮で生活していました。
キリスト教を教育の土台とした自由学園の特色は、「一日24時間生活のすべてが学びの機会」と捉え、責任を持って自分のことは自分でするという自治の生活を生徒主体で教師と共に協力して行っているところです。人間の総合的な力を育てることを教育目標に「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」がモットーでした。
学校は7時50分が朝の集合時間だったと思います。毎朝まず礼拝の時間があり、普通科1年から学部2年まで各クラスの当番がステージに座り、賛美歌を歌い、聖書を読んだ後、当番の8人が聖書の感想や日々の生活の中で気づいたことなどを発表していました。
私が自由学園に来て一番驚いたのは▽トイレが洋式であったこと▽食事に学校内にあるパン工房で焼いたパンが出されていたこと▽生サラダが食卓に上がったこと—で、この三つに大きなカルチャーショックを受け、今なお鮮明な記憶として焼き付いています。
聞き書き・中村英美
2023年1月1日号掲載