「夫婦二人展」へ題材探し 道端の百日草にひらめき
1982年、伊那市の農村部にある小松の実家に引っ越し、30畳のアトリエを増築しました。小松は佐久に住んでいた時も、東京でインスタレーションの個展を開いていましたが、生家に戻り本格的に絵画制作に取り組み始めました。
小松の家のある地域では、昔からの慣習がまだ多く残っていて、近所に建前やお葬式があると手伝いに行かなければなりませんでした。臨月に長男の嫁として、近所の家の建前の日に手伝いに行き、大きなおなかで畳に座って料理をするのがとても苦しかったのを覚えています。私は小松家の嫁として見られていました。どの家も屋号があり、小松家の屋号は「板屋」で、私は「板屋の姉さん」と呼ばれていました。
1時間に1本程度しかバスが走っていない地域で、私は、車で15分ほどかかる市街地まで下り坂だったのでバスが待ちきれず、大きなおなかで歩いて行ったこともありました。6月のある日、まだ薄暗い明け方に陣痛の感覚があり、産婦人科に電話で連絡しました。いろいろな本を読んで出産の知識を入れていた私は、初産なのでそんなにすぐには生まれないだろうとゆっくり構えて、楽しみにしていたNHKの朝ドラの「おしん」を見てから病院に向かいました。ところが、産婦人科スタッフが驚くほどのスピード出産で、昼前には無事女の子が生まれました。
出産してからは慣れない育児が大変でした。赤ちゃんをおんぶして台所仕事をしている時にふと「あんなに一生懸命勉強して芸大に入ったのに、こんな田舎で私は何をしているんだろう」と思ったこともありました。でも、目の前にいる子どもをしっかり育てるしかない。長男の嫁としてのお付き合いも頑張って覚えて、子どもをもう一人産んで、40歳くらいになって子育てが落ち着いたら、また作家活動を本格的に再開すればいい、ずっとここで生きていこうと、その時は思っていました。
娘の首が据わった生後3カ月過ぎには、託児所がある市内の自動車教習所に通い始めました。自動車免許を取得し、中古の軽自動車を購入してからは、娘が泣きやまない時に乳母車代わりに、車を走らせることもありました。公共交通の不便な地で、行きたい所に行けるようになって、大きな自由を得た感覚がありました。
娘が1歳くらいになるまでは、作品のことを考える時間もなく子育てのストレスも抱えながら、田舎ならではの人々との交流になじみつつありました。そんな時に、小松が「夫婦二人展をやらないか」と提案してきました。それまで絵画表現を否定していた私ですが、自然に囲まれて暮らし、自分がここで生きている、生活している実感の中で今表現したい魂と結びつく表現は何かと考えると、絵を描くことに行きつきました。抽象絵画という方向もありましたが、「絵を描く」という素朴なところに下りていったときに、何かを見て描くというのが一番ストレートな表現だという気がしました。
それならば何を描こうかと題材を探していた頃、よちよち歩きの娘と集落の田舎道を散歩していた時に、道端に咲いている赤い百日草に目が留まり、娘に「きれいなお花ね」と話しかけながら一緒に百日草に近づいてのぞきこんでみると、その形状の面白さに気が付きました。花・葉・茎といった姿全体をきれいに描くのではなく、花そのものをクローズアップして画面いっぱいに描いたら、抽象的な面白い絵になるのではないかとインスピレーションが湧きました。
百日草を真上から描いたり、お団子のように並べて描いたりしました。娘はまだ小さく手が掛かったので、少し空いた時にアトリエに行って、少し描いてまた子どものところに戻るといった具合で、制作に集中したい小松は、アトリエを頻繁に出入りする私にいら立つこともありました。
聞き書き・松井明子
2023年7月29日号掲載