ライチョウの研究と保護 山に年間100日間滞在
信大名誉教授・鳥類研究者 中村浩志さん
中央アルプスのライチョウは今から50年ほど前に絶滅しました。そこで、環境省のライチョウ復活事業が始まり、私は、その陣頭指揮を執っています。
20年、北アルプス・乗鞍岳から中央アルプス・駒ケ岳へ3家族計19羽をヘリで運び、放鳥する「作戦」が実行されました。その結果、繁殖数は毎年倍々で増え、23年は80羽になりました。「復活」への道筋がようやく見えてきました。
私とライチョウとの関わりは信州大学教育学部で当時、ライチョウ研究の第一人者だった羽田健三先生の研究室に入ってからです。今、私はライチョウ研究のため年間100日間ほど山に滞在します。「現役」時代よりも充実した研究生活を送っていると言ってもいいのかもしれません。
この間ずっとライチョウの研究をしていたわけではありません。信州大学卒業後に進んだ京都大学大学院では、信州大学の卒論のテーマに選んだカワラヒワの研究を続け、博士論文にまとめました。30歳を過ぎて、信州大学に助手として戻ってからは、羽田先生のライチョウ研究を5年ほど手伝いました。実は、私はこれでライチョウ研究の幕引きと考え、以後、私自身の研究テーマであるカッコウの托卵研究に没頭しました。海外の研究者が解けなかった謎を解明し、ネイチャー誌やサイエンス誌といった海外の権威ある雑誌に論文を発表し、成果を挙げることができました。
カッコウの托卵研究がひと段落した頃でした。羽田先生が亡くなり、ライチョウの研究者がいなくなりました。私は、「ライチョウはどうなっているだろうか」と気になりました。私のライチョウ研究が再び始まりました。50歳を過ぎてからの再出発です。
調べてみると多くの山でライチョウの生息数が減少していました。また、サルやシカ、イノシシといった平地の草食動物、さらにカラス、チョウゲンボウといったかつてはいなかった新たな捕食者が高山に侵入していました。ライチョウにとって、高山は以前のように安住の地ではなくなっていたのです。
このままでは日本のライチョウは確実に絶滅すると確信した私は、この鳥の研究に加えて、「保護」にも手を付けざるを得なくなりました。以来、20年以上にわたりライチョウの研究と保護活動に従事しています。
カッコウとライチョウの研究と並行して、長野県を舞台にほかのさまざまな鳥も研究しました。アカショウビン、ブッポウソウといった数の少ない貴重な鳥、夜行性のフクロウ類、警戒心の強い猛禽類の研究などです。
恩師の羽田先生の代で、身近な鳥の研究は終わり、私の代になってからは数の少ない鳥や調査の難しい鳥ばかりが残りました。
信州大学に入学以来、私の人生は鳥の研究一筋といっても良いでしょう。なぜ、60年近くにわたり鳥の研究を続けて来られたのかというと、鳥が好きだったからなのではありません。不思議に思えること、誰も明らかにしていないことを解明する喜びを子どもの頃から知っていたからです。私にとって研究は楽しいものなのです。
聞き書き・斉藤茂明
掲載日2024年1月1日
中村浩志さんの歩み
1947(昭和22)埴科郡坂城町で中村仲夫・正枝夫妻の三男として生まれる
1953(28)坂城町立南条小学校入学
1959(34)同町立中之条中学校入学
1962(37)屋代東高等学校(現・屋代高校)入学。考古学班に入る
1965(40)信州大学教育学部入学。考古学から鳥の研究に
1969(44)同大学卒業。同大学教育学部付属志賀自然教育施設教務助手
1970(45)京都大学理学部動物学教室研究生
1972(47)同大学大学院修士課程入学
1973(48)西山ミエさんと結婚
1974(49)同修士課程修了
1977(52)同博士課程修了(理学博士)
1980(55)信州大学教育学部助手。カッコウの托卵の研究を開始
1986(61)同学部助教授
1992(平成4)同学部教授(2012年まで)
1994(6)文部省長期在外研究員としてケンブリッジ大学に留学
1998(10)カッコウの托卵に関する論文をサイエンス誌に掲載
2000(12)カッコウの托卵に関する論文をネイチャー誌に掲載
2002(14)「第11回山階芳麿賞」受賞。ライチョウの研究を再開
2006(18)日本鳥学会会長(2009年まで)
2011(23)日本鳥類保護連盟「環境大臣賞」受賞
2012(24)同学部退職。名誉教授就任。同大学特任教授(2015年まで)
2013(25)坂城町教育委員長(2016年まで)。ライチョウの保護活動に着手
2015(27)「国土交通大臣賞」受賞。一般財団法人中村浩志国際鳥類研究所代表理事(現在まで)
2019(令和元)「信毎賞」受賞
2021(3)日本鳥類保護連盟「常陸宮総裁賞」受賞。「安藤忠雄文化財団賞」受賞
2022(4)「日韓国際環境賞」受賞