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10 ソムリエコンテスト出場

日本のトップと同じ舞台 経験を積み芽生えた自信

「フランスワイン・スピリッツ全国ソムリエ最高技術賞コンクール」の出場証明書。上位入賞は逃したが、感触は良かった

 私の構想は、取り扱いを始めた安曇野ワインを全国区にしたいと、どんどん膨らんでいきました。そして、1983年ごろ、東京・銀座の百貨店「三越」へと乗り込みます。3日間のワインフェアに出店を許可され、3タイプの安曇野ワインを持ち込みました。

 フェアでは、対面にフランスワインの店が出ていて、スタッフ5人がかりで盛大に売っていました。見た目では圧倒される感じもしましたが、お客さまの反応や売れ行きをみれば、結果的には私1人で売っていた安曇野ワインの圧勝でした。喜ぶ反面、「まだ東京でさえワインを理解する人は少ないのか」と残念な気持ちも湧きました。

 フェアの最終日、フランスワインの店にいた一人のソムリエが、「一杯飲ませてくれる?」と言って近寄ってきました。それが後に、世界ソムリエコンクールで優勝する田崎真也さん。まだ無名の若手ソムリエだった田崎さんは、長野県のワイン専用種で造った「竜眼の白」を一杯飲み、こう感想を言いました。「日本にも結構いい白があるんだ」

 ここでの出来事をきっかけに、私はソムリエという職を身近に感じ、より関心を持つようになりました。そして田崎さんは、ソムリエに関心を持った私を日本ソムリエ協会に推薦してくれました。その一方で私は、田崎さんが籍を置いていたワイン輸入会社のフランスワインを取り扱うことになりました。

 スターソムリエとなった田崎さんとはその後、長野県原産地呼称管理制度の取り組みで審査委員長に就いてもらうなど、交流する仲は続きました。

 ソムリエという職業に関心を持ち始めた84年、私は、東京で行われた「フランスワイン・スピリッツ全国ソムリエ最高技術賞コンクール」に出場しました。ソムリエやソムリエを目指す人が出場したコンクールで、私はまだソムリエ資格を取る前でしたが、自分の力量がどの程度か、どんな人が参加するのかに興味を持ち参加しました。一緒に腕を競ったのはホテルオークラやホテルニューオータニなど、都内の有名ホテルのソムリエやワイン担当者でした。

 利き酒と筆記試験などが行われ、利き酒では、有名ホテルのソムリエの答えがピントを外していて、「こんなワインを外すんだ」と意外に思いました。まだ、日本でのワインの浸透度の低さに驚く反面、そのワインの銘柄を当てたことは自信になりました。

 利き酒は、100種類のワインを飲んだ人は、50種類飲んだ人より明らかに優れている、「経験値」がものをいう世界。私はそれだけの経験を積んできたのだと自覚しました。まだ、ワインの黎明(れいめい)期で、ソムリエの人数が少なかったとはいえ、当時の日本のトップソムリエと同じ舞台に立てたことには興奮しました。

 ソムリエコンテストに出て、自信が芽生えたことでその後も、コンテスト出場の準備は続けました。名刺大の紙の表にワインの銘柄を書き、裏に産地やワインの特徴を書いた「カード」を約3千枚作り、暗記しました。

 88年、私はソムリエの資格を取得しました。その後、私は日本ソムリエ協会の役員になり、主催者側になったため、コンテストの勉強はやめてしまいました。

 しかし、ワインの勉強に終わりはありません。勉強するほど深くなっていきます。急にではなく、徐々に知識が深まり、感度が高まっていきます。コンテスト向けの勉強はやめましたが、仕事などで毎年千種類はテイスティングをしていて、それが積み重なり、昨年よりは今年の方が、感度が上がっていると実感できます。まだワインは勉強中です。

聞き書き・斉藤茂明


2022年7月9日号掲載

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