素晴らしい才能に恵まれ… 「星影のワルツ」を娘に歌う
1984年に開催した夫婦二人展で私は初めて花の絵を発表しました。長らく否定していた絵画が私の中でよみがえったのです。現在に至る私の花の絵のスタートでした。伊那市内のショッピングセンターのフリースペースを3日間借りて開催した二人展は、小松にとってはとても重要な3日間でしたが、私は気楽な脇役の気分で、来場者との交流を楽しみました。
小松はその後も熱心にアトリエで制作を続けていました。私は娘が成長して同居の義母に日中の面倒は任せられるようになり、収入を得るために仕事を探し始めましたが、なかなか良い仕事が見つかりません。芸大卒の学歴が立派過ぎて受け入れられませんと、思ってもいない理由で断られたこともありましたが、知人が紹介してくれた店舗専門の内装設計施工の小さな会社に就職が決まりました。
子育てと田舎の風習に慣れること、そして初めての仕事に取り組むなど、私は自分のことで精いっぱいの日々を過ごしていました。そんなある日、小松は「また東京に戻らないか」と言いました。私は「お母さんが心配だからと自分で帰ってきたのに、今更何を言っているのだろう」と思い、取り合いませんでした。静かな田舎で子育てを始めていたので、小さな子どもを抱えて都会の喧騒の中に戻るなど、当時の私には到底考えられませんでした。もしもあの時に「そうだね、また東京で暮らそう」と私が答えていたら、小松のその後の運命は違うものになっていたでしょう。
小松が赴任した塩尻高校(現・塩尻志学館高校)は実家から車で1時間余の所にありました。前任校と同じく小松は熱心に美術指導をしましたが、同じ受け取り方をする生徒はおらず、担任したクラスの生徒たちへの対応に悩み、大きなストレスを抱えていたことを後で知りました。また、実家に戻ったことで、古い因習や昔から続く人間関係から逃れられない地域社会との関わりにも傷つき悩んでいました。
そんな気持ちを抱えつつ再開した絵画制作に真剣に取り組んでいた時、評論家の小崎軍司さんから連絡がありました。信濃毎日新聞に取り上げてくださるとのお話でした。取材を受けて、小松はとても喜んで何人もの知人にその件を話していました。ところがその記事がなかなか紙面に掲載されず、小松はとても気にしていました(小松の死後に記事が掲載されました)。毎日学校に通い、仕事も真面目にこなしていた小松ですが、思い返すと、小松が心を病んでいく予兆がさまざまな行動になって現れていました。ところが私は自分のことで精いっぱいで、それらのサインを深刻に受け止めていませんでした。
その日は小松良和の36歳の誕生日でした。小松はよく自分の誕生日はパリ祭の日なんだと、ちょっと誇らしげに語っていたものです。前日の夜まで激しく降っていた雨が上がり、梅雨が明けて見事な太陽が輝く、光に満ちた日でした。義母と私が娘を連れて家を離れている間に、小松は自らこの世を去りました。画家としての素晴らしい才能に恵まれ、自らの信念に従い真摯(しんし)に制作を続けてきましたが、作家として思うように生きられないことに絶望して自ら生命を絶ったのです。
直後の記憶は定かではありませんが、すぐに近所の人や親戚が集まってきて葬儀の準備が始まり、その人たちが気遣って食事の準備もしてくれました。生まれて初めて、口の中の食べ物が何の味もしないゴムのように感じる経験をしました。そんな私とは無関係に着々と葬儀準備が進められました。娘はまだ2歳になったばかりで何も分からないのが救いでした。
小松が他界した数日後の夜、家の中では葬式のために多くの人が忙しく立ち働いていましたが、私は娘を背負って誰もいない庭に出ました。晴天の夜空に星が輝いていたせいなのか、娘をあやすために「星影のワルツ」を歌ったことを覚えています。これ以上ないショックを受けた私を正常な心に引き止めていたのは、背中に背負った柔らかく温かい娘の存在でした。
聞き書き・松井明子
2023年8月5日号掲載