りんごジャムを商品化 志賀や軽井沢へセール
ペンションをやめて生活をしていけるようにと、レンタルスキーや図書のセールスと同時並行でいろいろなことを模索していました。
ペンションでは、妻のまゆみさん手作りのりんごジャムをお客さまの朝食に出し、お帰りのときに、お土産に差し上げていました。リンゴそのものの風味を生かした砂糖控えめのジャムでおいしいと評判も良かったので、商品として販売しようと保健所に相談に行きました。斑尾で始めたので、直感的に「斑尾高原農場」というブランド名を考えて登録しました。
ジャム製造を頼める会社をあちこち探し回った末に、中野市の食品工場に「レシピを提供するのでりんごジャムを作ってほしい」とお願いし、商品化しました。
この頃に出会った瓶メーカーとは今もお付き合いをしています。ラベルのデザインは、知り合いの美大生にお願いしました。裏ラベルを大きくし、正方形の赤い紙にシンプルに「りんご」と書き、上掛けで、輪ゴムで留めたデザインで、これがお客さんの目を引き、手始めに自分のペンションに置いてみたらよく売れました。仲間のペンションにも、売れた分だけお金をいただくというような委託販売のかたちで置かせてもらいました。
当時、斑尾で一番集客力のあった「マザーグース」という土産物店を営んでいた伊藤洋子さん夫妻には、ジャムを始める前から相談に乗ってもらいました。販売でも大きく貢献していただきました。
斑尾にはホテルやペンションが100軒くらいあり、そのうち40軒くらいに扱ってもらえました。斑尾よりも市場が大きい志賀高原にも売り込みに行きました。志賀高原は修学旅行生や若者に大人気で一つ一つの宿泊施設が大きかったので、売れ行きもかなり良かったです。
ペンションの仕事も忙しかったのですが、そちらは妻とアルバイトの人に任せて、志賀に行くときは子どもたちを一緒に大型四輪駆動車に乗せてジャムを売って歩きました。幼くてまだおしめをしていた次男は、かわいそうに気が付いたらおしめがぬれたままになっていたこともありました。ふぶいていたときもあったし、帰る頃には外は真っ暗に。今から考えると危険ですし、子どもがかわいそうでしたが、私は仕事をこなすことに夢中。普通の家庭の親がするような丁寧な育て方ではありませんでした。
その後、当時からリゾート地として人気の軽井沢にも売り込みに通いました。軽井沢には、有名な老舗のジャム屋がすでにあったので、お願いして回ってもなかなか取り扱ってもらえませんでした。「なんで軽井沢で斑尾なんて他の観光地のものを売らなくちゃいけないんだ」と、行く先々で冷たくあしらわれました。私は「これは観光地名ではなくて、斑尾高原農場という一つのブランドなのです。長野県を代表する、あるいは日本を代表するブランドに育てたいので、この名前で売らせてほしい」と、粘り強く頼みました。
何度断られても諦めず、10回ほど通い続けた頃には私の思いが伝わり、最終的にはほとんどの店で取り扱ってもらうことができました。旧軽井沢の老舗パン店「フランスベーカリー」などでは今でも商品を置いていただいています。
聞き書き・松井明子
2021年4月17日号掲載