米国との連携を密に躍進
丸子小唄 土谷泉石作歌 作曲
(一)
世界へ 世界相手の 商工業は
イト キイト サノ サ
製糸事業が 第一よ 第一よ
イトサ イト キイト
サノヨイヤサ イトサッサッサ
上田市の東寄り、しなの鉄道大屋駅前から千曲川を越え、支流の依田川沿いを行く。すると5キロほどで旧小県郡丸子町の中心部だ。
川辺から見上げる小高い広場に、ちょっとおしゃれな木造の古い建物がある。「依水館」の名で親しまれ、製糸業全盛期の大正時代、視察に訪れた米国の絹織物業者を歓待する迎賓館だった。歴史のシンボルである。
1889(明治22)年4月、依田川周辺4村の合併で丸子村が発足した。人口2955人。小県郡内でも中規模の普通の純農村だった。その後に発達を見せる製糸業が、刻々と町の様相を変えていく。
1911(同44)年には人口が5千人近くに膨らんだ。翌12(大正元)年10月、町へ移行。人口5262人を数えてのことである。
以来ほぼ1世紀、上田市との合併により町の歴史を閉じる2006(平成18)年3月時点では、2万4441人に上った。これほどまでの躍進は、製糸業の興隆抜きに語れない。
合併4年前に発行された「上田市誌」近現代編(3)の記述に注目したい。上田小県の製糸業は諏訪に次いで〈県下でも屈指の生糸の産地でしたが、その中心になったのは丸子です〉。正直な分析だ。中でも先頭に立った依田社の存在が大きい。
設立趣意書で〈共同一致尽力〉をうたい、器械製糸改良を目指した結社である。1890(明治23)年7月操業開始。小規模の工場で作った生糸を持ち寄り、共同で最終工程の揚げ返し、品質検査、荷造り、出荷などに当たる。輸出先との大口取引で有利に立つ方策だ。
創業者で社長の下村亀三郎(1867〜1913年)は、1904(同37)年に米国の絹織物業を視察した。そして信州産の生糸に対する評価の低さに驚く。質より量に傾斜させた繰糸法が、織物機の高速運転に耐える良質の糸を求める米国の状況に合わないのだった。
明治40年代、依田社に限らず諏訪や須坂の大製糸場も、糸質の向上を目指す取り組みを強める。けれども質の良否は、繰糸法だけで決まるわけではない。原料の繭に負うところを無視し難い。繭を作る蚕、その卵である蚕種もかかわる問題だ。
行政の立場で長野県は、丈夫な蚕を育てる桑園改良、原蚕種製造所の設置などを進めた。蚕糸王国を支える官民の幅広い連携の中に、依田社も位置している。
2021年5月29日号掲載