農民主体の産業組合構想
春繭(はるまゆ)の 安きを妻となげきつつ のぞみうすくも 夏蚕(なつご)飼ふなり
下市田 岡 のぼる
苦労して収穫にこぎ着けた繭が、思うような値段で売れない養蚕農家の嘆きだ。昭和の初期、1930年前後に、下伊那郡下の青年たちの間で文芸誌が数多く発行された。そこに載った短歌である。
後半の〈のぞみうすくも夏蚕飼ふなり〉に泣かされる。年間通じて一番いい値で売れる春繭が安かった。品質の劣る夏場の繭であれば、なおさら高値は望めない。それでも現金収入が必要だから、農家は飼わざるをえない。
蚕糸業と一口にいうけれども、養蚕業と製糸業の関係は微妙だ。養蚕農家が蚕を育てて作った繭を買い取り、製糸家は生糸を製造する。両者は持ちつ持たれつの関係ではある。
同時に繭の価格を挟み、相対立する仲にもなる。生糸の生産費の約8割までを繭の購入費が占める。残る約2割で製糸家は、大勢抱えた工女ら従業員の給料はじめ設備費、燃料費などを賄う苦しさに直面する。いかに繭を安く仕入れるかに、命運が懸かっている。
こうした事情を背景にして、養蚕農家の庭先では繭を買い求める仲買人との間で、きわどい駆け引きが個別に展開される。
農家にとっての弱みは、繭が生き物であることだ。中では蛹(さなぎ)が生きている。ほどなく成虫の蛾(が)になり、繭を破って外に出る。そうなるともはや生糸にはならず、くず繭だ。その前に売買を成立させねばならない制約が厳しい。
いっそのこと農家自らの手で製糸工場を経営し、自分たちの育てた繭を自分たちで生糸にしよう—。そんな思いで結束し立ち上げたのが、協同組合組織の組合製糸だ。
追い風も吹いた。1900(明治33)年に産業組合法が公布され、法的な後ろ盾が整った。後の民俗学者柳田国男が東大を卒業して農商務省農政課の若き官僚となり、産業組合の意義と必要を説いて回った影響も大きい。
その頃信州の製糸業は、片倉はじめ営業製糸の盛んな諏訪郡が抜きん出た存在だった。原料の繭を広く買い集めており、伊那谷へも食い込んでくる。規模の小さな製糸場ばかりで地元購買力の弱い上・下伊那の農家は、買いたたかれやすい。
そこに登場した農民主体の産業組合の構想である。手塩にかけた繭の販売に苦労してきただけに、多くの養蚕農家の心をとらえるのが早かった。
既に1898(同31)年から上伊那では組合組織の合資会社が創立されており、産業組合法に合わせて許可申請→認可と進んだ。製糸業の新たな一ページが始まる。
2021年6月26日号掲載