組合製糸の連合で強化
東ゃ高烏谷(たかずや) 西ゃ駒ケ岳 間(あい)に生まれた 竜水社
農家同士の 組合製糸 とれた生糸の 艶のよさ
「伊那節」より
農民自らの組合製糸といえば、長野県内では上伊那の竜水社、下伊那の天竜社が代表格だ。民謡「伊那節」の数ある歌詞の一節が、竜水社とはどういう存在だったか—簡潔に明快に語っている。
天竜川を挟み、東に高烏谷山(1331メートル)、西に駒ケ岳(2956メートル)。その間で農家が結束した製糸場—それが組合製糸だ、と。歴史を振り返るには、多くの農民を束ねる苦労を背負ったリーダーたちの足跡をたどるのが、分かりやすい一つの方法かもしれない。
地域に製糸場が少なく、よその繭仲買人に買いたたかれる。立ち上がった一人が、高烏谷山のふもと東春近村(現伊那市)の飯島国俊(1860〜1937年)だった。自分たちで製糸場を起こすしかないと決意し、有志を募る。
しかし、創業してはつぶれる小工場を見聞しているだけに、賛同者は集まらない。やむを得ず広く出資を呼びかけ、廃業した製糸場を生かして上伊那合資会社を設立する。
タイミングよく2年後の1900(明治33)年、農村の振興を目指す産業組合法が公布された。これに基づき05年、産業組合として認可される。
全国でも最初の組合製糸の歴史的スタートだ。さらに継承・発展させたのが天竜川の西、駒ケ岳を仰ぐ旧田切村(現飯島町)の山田織太郎(1873〜1930年)である。
会社組織の営業製糸に対抗する飯島の理念に共鳴し、優れた実行力で組織の拡充に力を注ぐ。とりわけ相次ぎ誕生した小さな組合製糸の大同団結を目標に定めた。山田らの呼びかけに、まずは7組合の参加で設立された連合会。14(大正3)年4月のことである。
それが竜水社となっていく。組合員の農家が作った繭は全て引き受ける一方、養蚕指導員を巡回させて繭の品質向上を図る。女子工員の養成にも積極的に取り組んだ。
平和産業が壊滅状態の第2次大戦後、地元の現駒ケ根市生まれ、北原金平(1893〜1973年)が竜水社の再生に奔走する。山田の目指した方向を戦後の新たな時流に応じて実践することだった。
象徴的なのは64(昭和39)年、自動繰糸機を導入し、駒ケ根市赤穂に生産を集中したことだ。営業製糸に引けを取らない大工場の出現となる。明治の終わりころは、1工場当たりの釜数、つまり規模が、長野県下郡市の中で上伊那、下伊那ともに下位にあった。
そこを脱し一段と地域での存在感を大きくした組合製糸だった。
2021年7月10日号掲載