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11 ホテル専門学校

実践に即した授業中心に 同級生の一人と結婚へ

星野温泉旅館での研修中、休みの日に、由良さん(右)と訪れた白糸の滝で=1964年夏

 自由学園の最終学年である学部2年生、20歳になった私はいよいよ次のステップを考えなければならない時期にさしかかりました。英語が好きだった私は、本音を言えば、海外に語学留学をしたい。かなわなければ語学学校で勉強したいと思っていました。

 しかし、一方で家庭の経済事情を鑑みるとそれは難しいことでした。もう少し東京に残って都会の空気にふれているにはどうしたらいいのだろう。それで考えたのが、ホテル学校への進学でした。将来、旅館に入るにあたり、業界専門校ならば長野の両親も承知してくれると思ったのです。父の常夫さんに話すと「いいよ」と許可してくれました。

 1964年の春から1年間、新宿区にあった東京YMCA国際ホテル専門学校へ進みました。その頃の学校には、4年制の大学を卒業した人たちでつくるクラスと、高校を卒業した人と社会人になっていろいろな職業に関わってから改めて入学した人たちのクラスの二つがあり、私は後者のクラスに入りました。

 若い人もいれば、40代くらいの中年のおじさんもいて、性別も年齢もばらばら。本当に人生いろいろな人たちの集まりでした。授業は、経営学と語学をはじめ、接客など実践に即した勉強が中心で、隣接していたYMCAのホテルでベッドメーキングやウエーターの修業もしました。

 接客の先生は、着物を召した高齢の女性でした。その先生が教えてくださった中で一つだけ、「いらっしゃいませではなく、いらっしゃいましとおっしゃい」と言っていたのをなぜか今も覚えています。

 夏は研修があり、自分の好きなホテルへ修業とアルバイトを兼ねて行きました。私は軽井沢の星野温泉旅館を選び、同級生数人と共にそこで1カ月を過ごしました。社長がホテル学校の先生をしていたことや、自分の出身県でもあったことから決めたように思います。当時は普通の旅館でしたが、常に忙しく、成績にも影響するというので、ともかく一生懸命働きました。

 日給は300円。休み時間には、近くのスケート場で慣れないスケートをして、尾骨を思い切り打ち、1週間くらい腰を伸ばせずに曲げながらいたことを思い出します。研修中のある日、社長がお招きくださり、研修生みんなでバーベキューをごちそうになりました。この時一緒だった小さなお子さんが今の星野リゾートの社長さんです。

 そしてその夏、私はここで一緒に研修した同級生の由良正史さんと付き合い始め、結婚を決めました。養子に入ることを承知してくれた彼は神戸市の出身で、高校時代にボート部で鍛えていたこともあってか、たくましい体格をしていました。ホテル学校在学中のある時、彼と一緒に藤屋に帰省し家族に紹介すると、祖母の甫おばあちゃんは、藤屋の男性には見られない立派な体付きに感心し、とても喜んでくれたのを覚えています。

 ホテル学校を卒業した私は長野に戻り、藤屋へ就職。海外のホテルで働くのが夢だった彼は私との婚約の後、オランダのアムステルダムヒルトンへの就職をかなえ、約3年間の約束で旅立って行きました。1ドル360円の当時、飛行機代は目が飛び出るほど高く、20歳そこそこの若者にはとても乗れるものではありません。神戸港から貨物船で1カ月かかる船旅でした。

 聞き書き・中村英美


2023年1月28日号掲載

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