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夫の遺作展を無事開催 作品集も納得の出来栄え

1986年に辰野美術館で開催した小松良和遺作展の会場風景

 私にとって小松の死の衝撃は計り知れませんでしたが、志半ばで逝った小松の無念さを思うと、この世に小松良和という優れた作家がいたのだという証明を何としても残さなければならないと思っていました。一周忌の頃に、当時芸大にあった陳列館と生前小松が個展を開催していた東京の画廊と、辰野町の辰野美術館の3カ所で遺作展の開催を計画し、それに合わせて小松良和作品集の制作に取り掛かりました。

 無名であってもこんなに素晴らしい才能ある作家が存在していたのだという記録として、残された小松の作品とインスタレーション作品の記録写真、そして小松が作品についてや、教え子たちに残した生き方についての散文なども掲載した作品集は、芸大の先輩が紹介してくれた、小さいながら出版の世界では有名な昭森社から自費出版することにしました。

 私が構想した作品集はかなりの額の費用を必要としましたが、小松が亡くなる前にアパート経営を構想していて、その資金のために畑を売ったお金があり、それを出版と遺作展の費用に全て充てることにしました。かつて小松が勤めていた川越市の中高一貫校での教員仲間が作品集制作のために募金をしてくれたり、遺作展開催にあたっても多くの人たちが協力してくださいました。

 その過程で、私が思っていた以上に多くの人が生前の小松に思いを寄せてくださっていたことを知りました。小松が他界してからの1年間は、店舗内装設計施工の会社の仕事をしながら、遺作展開催と作品集制作のために費やしました。多くの人の気持ちが集まり、遺作展も無事開催でき、作品集も納得のいく出来栄えとなりました。

 全てが終わり、小松のためにやるべきことがなくなり、小松のいない伊那市の家にいる必然性は私の中で消えていることに気が付きました。アトリエもあり、会社での仕事は面白いので、このまま伊那市で生きていこうと思っていましたが、心にぽっかりと穴が開いたようになり、「私は何のためにここにいるのだろう」と思うようになりました。

 さまざまに思い悩み、信頼できる人たちにアドバイスをもらい、私は娘と一緒に長野市の実家に帰ることに決めました。小松の母が一人になってしまうのはかわいそうだと思いましたが、小松の2人の弟がすぐ近くに住んでいたので、その点は安心でした。小松が亡くなるという事態は親族の誰もが予想していなかったことで、亡くなる数カ月前に、土地は全て小松が相続する手続きを済ませていました。小松亡き後、相続権者は私と娘になることから、親族の一部はその件を心配したようでしたが、私は全ての相続権を放棄して実家に戻りました。

 娘は小松の母にとても懐いていましたから、引っ越すために最後に車に乗り込む時は泣いていました。関係が悪くなって実家に戻ったわけではなかったので、長野市に戻った後も、娘が中学生になるまでの約10年間は1、2カ月に1度といった頻度で、娘を連れて伊那市を訪れていました。おばあちゃんや小松の親戚とのふれ合いの時間を持ち続けることで、物心つく前に亡くなってしまった父親の存在を娘のアイデンティティーの中に刻み付けておきたかったのです。伊那を訪れると、小松の母をはじめ親戚の人たちもいつも喜んで温かく迎えてくれ、娘を大切にしてくれました。

 ところで、東京を離れてから長野県に戻り、佐久市を経て伊那市に約4年間暮らした私は、久々に生まれ育った長野市に帰ってきました。私の両親は、私が高校卒業後上京した時、市内の北条の分譲住宅に住んでいましたが、私が浪人生活をしている時に父は脱サラして農業に転身し、市内の西端にある村山という小さな集落の生家に転居していました。そこで私も、子どもの頃、おばあちゃんの家だったその家に娘と共に引っ越し、両親や姉家族と同居することになりました。

 聞き書き・松井明子


2023年8月19日号掲載

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