立派な装い 心遣い息づき
森の横町
なぜ日が照らぬ
秋葉道者(どうしゃ)の
笠のかげ
秋葉街道を往来する人のにぎわいを、七・七・七・五の26音でうたっている。都々逸などと同様に、庶民の間で広く親しまれ、口ずさまれた俗謡だ。
信州と遠州を結んだ塩の道—。江戸時代半ばからは火伏せの神を祭った秋葉山へ参拝する祈りの道の色彩を強めた。その主だった宿場町、森の横町(静岡県)はなぜか日が照らない。火の用心、火伏せの神様秋葉神社へお参りする大勢の人がかぶる笠に遮られるからだ、と。
人口が増えるに従い森町宿は上町、下町に加え上新町、下新町といったように新しい町並みが生まれ、それら南北の通りを結ぶ横町もできていった。森町に限らずどこでも同じように、こうして物と人の集積地が形成されている。砂漠の中で栄えたオアシスも、たぶんそうだったのだろう。
遠州各地の古い道を歩いていれば、立派な装いの秋葉山常夜灯に目を奪われる。どっしり重厚な石造り、灯火台をすっぽりと屋根や板壁で囲った覆屋(おおいや)造りのものなど地域の人たちが、どれほど常夜灯に祈りを込めているかが伝わってくる。
しかも夕刻になればそれぞれの当番が明かりを灯す。徒歩の秋葉道者が姿を消した車社会の今でも、ともし火の道しるべで迎えた頃の温かい心遣いは、なお息づいている。
「暮れかかって明かりがつけばホッとすると、山奥の常夜灯近くでお年寄りが話してくれた。一日を終えた安らぎ、地域の人のつながりを感じ、気持ちが和むのでしょうね」
森町在住で遠州常民文化談話会会員でもある呉服商、袴田克臣さんが語る。あちこちの常夜灯を訪ね歩き、周辺の人たちと話を交わすたびに、しみじみ感じ入るのだった。
町の南西、草ケ谷地区の常夜灯は、遠州灘寄りの東海道袋井宿からの街道沿いに1855(安政2)年ごろ建てられた。もともと小高い茶畑にあったのを現在地に移転修復した。
注目したいのは創建時に灯火台を覆う建物を造った大工だ。2人の氏名が記され、もう1人は近郊の「天方村薄場の人」で、彫刻を担当している。
1998年発行の「森町史」通史編下巻によると、常夜灯の覆屋は、初期の簡素なものから次第に彫り物などを施す手の込んだものになった。江戸後期、信州諏訪地方で建築彫刻を競い合った大隅流、立川流両派の技をくむ大工たちが、ここでも活躍する。
詳しい地図などない時代、ひたすら歩く旅人に常夜灯は、心強い道案内をした。いわば陸の灯台ともされる大仕事に、信州大工の影響が及んでいる。熱い拍手を送りたくなった。
2021年12月11日号掲載