隣接県と巨大な産地構成
中井侍茶摘唄
三国境の 天竜川こえた 風が送るよ 茶の香り
グリーンベルトの 段々畑 霧と人情 まろやかに
JR飯田線の魅力の一つは秘境駅にある。あれもあります、これもあります—と宣伝するのが普通の観光地なのに、秘境駅には何もない。強いて言えば不便さが売りだろうか。
▽山中などにあり、駅周辺に人家や人の気配が全く感じられない。
▽駅まで到達するのに鉄道を使う以外には難しい。
何をもって「秘境駅」と称するか—。飯田線を運営するJR東海が挙げる要素だ。
信州と遠州と三河の三国。つまり現在の長野、静岡、愛知三県の境界が三国境。電車で豊橋方面に向かうと、長野県最南端の駅が天竜村の中井侍(なかいさむらい)で、次の小和田(こわだ)駅は静岡県浜松市天竜区水窪(みさくぼ)町になる。共に秘境駅に数えられる。
小和田駅から見下ろす天竜川の真向かいは愛知県豊根村。駅には三県それぞれの方角を矢印で示す標識が立つ。いわば、三国境に位置する証明であり、自慢の種でもある。
一方の中井侍といえば、天竜川沿いの急傾斜地に茶園〈グリーンベルトの段々畑〉が広がる。川霧に潤って育つ手摘みの茶が誇りだ。驚いたことに、ここから県境を越えて下流へ直線で約23キロ、浜松市天竜区竜山にも瀬尻の段々茶畑がある。
三国境を頂点に東海道を底辺とする三角地帯。その東の一辺、掛川宿を経て延びる秋葉街道の先は、牧之原台地の茶どころだ。
残る西の一辺、豊橋宿に至る遠州街道や岡崎宿と結ぶ三州街道は、豊橋が「蚕都」を誇ったように、蚕糸業の盛んな三河地域の主要な陸路であった。二つの街道筋は蚕糸業を通じ、信州と幾重もの糸がつながっていた。
この一帯を基軸に愛知県の生糸生産量は1918(大正7)年の数字で、長野県に次ぐ全国2位。10年前の4位から山梨、群馬を追い越している。
天竜川が流れ出る諏訪湖周辺は、岡谷をはじめ蚕糸王国信州の要だ。隣接する愛知、静岡とともに、日本列島の真ん中で、生糸とお茶の巨大な産地を構成していたことになる。
重要なのはこの二つの品目こそ幕末から明治にかけ、外貨稼ぎの二本柱だったことだ。開国と維新を経て新たな国づくりを急ぐ日本。鉱山・製鉄・造船などの産業育成、道路・鉄道・通信などの基盤整備に資金はいくらあっても足りない。
欧米諸国が買い求める生糸とお茶の輸出により、それを生み出したのである。南信州・遠州三河をまたぐ一帯は、いわば日本の近代化を支える幅広い帯状のシルクロードだった。
一口メモ [街道のイロハ=伝馬(てんま)] 宿ごとに決まった数を用意し、幕府、大名など公用の荷物輸送に使った馬。一般の民間用運搬も許されてはいたが、あくまで公用優先であり、後回しにされた。
2022年2月5日号掲載