旧蚕室を改装 アトリエに 信濃美術館に花の絵出品
私と娘は、父と母、そして姉親子の5人で暮らしていた長野市篠ノ井の村山という集落にある実家に移り住み、7人での生活が始まりました。名字を小松から小山に戻し、心機一転のスタートでした。
高校卒業後上京して以来、佐久市、伊那市を経由して久々に戻った長野は、その時の私にはすごく都会に感じられました。娘を連れて「ながの東急百貨店」に遊びに行った時に、店内の雰囲気に気後れし、娘の洋服でも買おうと思って行ったはずが、結局、数百円の塗り絵だけを買って帰ってきたことをよく覚えています。今思うと、私の心はとても小さく縮こまっていて、周囲のあらゆる物事に対して萎縮していたのでしょう。
実家での生活は、伊那での跡取りの嫁という役割から離れ、自分自身に戻り、とてもリラックスできました。母と姉は日中勤めに出かけていたので忙しく、当面仕事のない私が姉の子どもたちの世話をし、家事全般を担う主婦業を買って出ていました。
日中は家事雑事や娘の面倒で気が紛れていましたが、夜に娘を寝かしつけながら目を閉じると、小松の死の当日の記憶がよみがえり、真っ暗な闇に吸い込まれるような恐怖感に襲われ、そのたび、横で眠る娘に救われました。母である私を何の疑いもなく慕ってくれる娘の存在は、私が生きる意味を力強く証明してくれました。そして、作家として生きてゆきたいという大学生時代からの目標が、いまだ何者でもない私の人生の未来に、一筋の光を投げかけていました。両親はそんな私を無条件に応援してくれ、「家にいて、絵を描いたらいいよ」と言ってくれました。
実家には絵を描くスペースがなかったので、2階建てのかつての蚕室の一角を改装してアトリエにしました。15畳程度の広さの簡単なものでしたが、制作を再開できる環境を整えることができました。
アトリエをつくって程なくして、県信濃美術館(現県立美術館)で企画展「現代の作家展」がありました。現代の作家展は、1回目は辰野町の辰野美術館で開催され、生前の小松が参加しました。2回目は信濃美術館で開催され、小松の遺作を出品してほしいと依頼されて出品しました。1987年に行われたこの3回目の時に、「今度は小山さんが作品を出しませんか」とのお誘いがあり、紙にアクリル絵の具で描いた花の絵5、6点を出品しました。これが長野市に戻ってきて初めての展示になりました。
アトリエができたおかげで作品制作を再開することができました。作家活動とは別に、長野駅前のシーワンビルのショーウインドーディスプレーを請け負ったこともありました。
長野市での活動の大きな転機のきっかけをくれたのが、長野西高時代からの友人である越山(旧姓)富貴子さんです。心が小さくなり弱気な私に、「小山さんは芸大も出ているのに、謙虚過ぎる。もっと自信を持ってやるべきよ」と励ましてくれました。越山さんは当時、自宅で英語教室を開く一方で、週刊長野で記事などを書くリポーターの仕事もしていて、私のことを編集長に紹介してくれました。編集長の提案で、「スケッチin長野」と題して、市内にある古い建物のスケッチと、季節に合わせた日常の一こまをつづった小さなエッセーが週刊長野に掲載されました。その評判が良く、1988年の1年間、隔週で週刊長野のフロント面に大きく掲載されることになりました。
編集長は内容について私に任せてくれたので、善光寺周辺の建物や、子どものプール遊びの様子など、季節の移ろいとともにスケッチをし、エッセーを書きました。
聞き書き・松井明子
2023年8月26日号掲載