鉄路の力で製糸業全盛へ
汽車 文部省唱歌
今は山中 今は浜
今は鉄橋 渡るぞと
思う間もなく トンネルの
闇を通って 広野原
「汽車」が文部省唱歌として登場した1912(明治45)年の7月、年号が明治から大正に変わる。鉄道の歴史で見れば前年の明治44年、東京―名古屋間に中央本線約420キロが全通している。
明治期、長野県内の鉄道建設は、全国的にも早く進んだ。日本列島の中でも中部地方は、最も幅広く膨らんだ地形をしている。その山間地帯を片や信越本線が横断し、片や中央本線が縦断する。長野県内に限れば、一方は東北信を、もう一方は中南信を貫く。
いわば、南北二つの幹線を連絡するのが篠ノ井線だ。ここでも急坂の克服にスイッチバックなどの工夫を凝らす。6年8カ月を費やし、02(同35)年12月に全通した。
これにより信越本線と中央本線が、篠ノ井線を挟んで「工型」の構造で組み合わされたことになる。その意味するところは、蚕糸王国信州における新たなシルクロード、鉄道網の骨格の完成だった。
蚕糸業の発展と鉄路の拡張は、相呼応するかのように進んだ。信越本線が開通した翌年の1894(同27)年、フランス・イタリアの洋式技術を導入した器械製糸の生糸生産量が、伝統的な座繰り製糸のそれを上回った。
北信地域で器械製糸興隆の先頭を走った須坂の製糸業者は、信越線が開通するや、千曲川対岸の上水内郡吉田村(現長野市)に駅を設けるよう強力に働き掛ける。広く県内外から原料繭を集め、製品の生糸を運び出す拠点が必要だったからだ。
南信では中央本線が、ダイナミックに製糸業と関わった。96(同29)年、八王子と名古屋の両方で敷設工事が始まり、八王子側からは8年後、長野県内入りしてすぐの富士見まで到達した。ところが日露戦争の開始で工事は中断する。
既に生糸の一大産地を成す岡谷を中心に諏訪の製糸家たちは、直ちに動いた。ポンと巨費を提供して工事の継続を願い出る。戦費に苦しむ政府ではあったが、その熱意に応え1905(同38)年に岡谷まで開通させた。
大正から昭和の初め、長野県が製糸業全盛の活況を見せたのは、鉄道の引っ張る交通網の近代化に負うところが大きい。生きた(蛹)(さなぎ)の入った原料繭を遠方から迅速に集められるようになった。燃料には上質の石炭が運ばれてくる。製品の生糸輸送に専用列車も走った。
その経済効果は製糸場周辺にとどまらない。鉄のシルクロードが背骨となり、お蚕さんの恩恵を繭の産地、農山村の隅々にまでもたらしている。
2022年4月30日号掲載