民間の熱意で徐々に前進
直ぐ来ると
言ひて電車に
乗りにしが
思へば人は
泣いてをりにき
青山 榛三郎(はんざぶろう)
見送りにきた親しい人が、ホームの陰で泣いている—。演歌の一場面でも想像させるかのような一首だ。
ここに登場する電車は今のJR飯田線。歌が詠まれた1917(大正6)年、中央本線の辰野駅から天竜川沿いに延長工事が進められ、駒ケ根市の伊那福岡駅に達したところだった。
作者の青山榛三郎は上伊那郡南箕輪村生まれ。長野師範学校を卒業し、信州南端の現阿南町へ新任教師として赴く。せっかくの電車なのに福岡止まりだ。先はなお60キロ余りある。
それでも電車に乗れただけ良かった。1889(明治22)年、洋画を学ぶために16歳で飯田から上京した菱田春草の場合はこうだ。伊那谷をさかのぼって下諏訪まで72キロを歩く。さらに中山道の和田峠を越え、浅間山の麓を通って碓氷峠の急坂を下る。高崎に着き、そこから汽車に乗ったのだった。
苦労を重ねた伊那谷の人たち。中央線が岡谷まで延び、名古屋へ向け伊那谷を通すか木曽谷か2案が浮かぶや、懸命に誘致を働き掛ける。しかし、敗れた。ならば自分たちの手で—と、民間の力を結集したのが飯田線だ。
1909(明治42)年に辰野—伊那松島間8.6キロが開通して以降、小刻みに線路を延ばす。18年後の27(昭和2)年、天竜峡まで79.5キロが全通した。まだ飯田線とは呼ばず「伊那電気鉄道」である。
もともと私鉄4社のそれぞれ敷設した線路が、一本につながって国有化され、飯田線となっている。その第一歩は東海道本線豊橋駅を起点に1897(明治30)年開通の豊川鉄道だ。続いて1923(大正12)年、鳳来寺鉄道が三河川合まで通じる。
同じ23年、伊那電気鉄道は飯田に届き、終点の天竜峡まで残りわずかとなっていた。三河川合と天竜峡を結べば豊橋—辰野間が一本の鉄路でつながる。三河と信州の夢実現に向け、県境を越えて三信鉄道が設立される。
けれども一帯は、天竜川が激しく蛇行し、断崖絶壁を織りなす険しい山岳地帯だ。川村カ子(ネ)ト率いるアイヌ人測量隊の支援を受け、多くの犠牲を伴いながら37(昭和12)年、ついに全通させた。
これにより三遠南信の内陸部を貫き、中央本線と東海道本線とを結ぶルートが整う。全長195.7キロ。6年後、国が買い取り、国鉄飯田線となった。
辰野や隣の岡谷周辺は当時、日本の製糸業の拠点だ。豊橋もまた、蚕都を誇った糸の町である。そうした意味で飯田線は、製糸業の活気に満ちた谷筋をつなぐ絹の道でもあった。
2022年5月21日号掲載