蚕糸業最盛期大きい期待
冬枯の
村の人びと
舟橋の
板はづし居(お)り
洪水(おおみず)の川に
島木赤彦
日本の代表的な大河、千曲川を渡るのは容易でなかった。両岸にロープを渡し、たぐって向こう岸へ舟を着ける。あるいは幾つもの舟をロープに留め、板を並べて橋にする。
歌人の島木赤彦が詠んだのは舟橋の光景だ。1918(大正7)年、晩秋の飯山を訪れた折だった。増水で板が流されるのを恐れ、村人が急いで外そうとする。歩いて渡れる便利さの一方、維持していく苦労も読み取れる。
よく知られた一つに「布野の渡し」があった。北国街道の屋代宿で二手に分かれた脇往還の松代道が、福島宿(現須坂市)から対岸の長野市村山方面に渡る場所である。
北国街道は善光寺へ向け北上すると、千曲川以上に激しい犀川の丹波島渡しが立ちはだかる。幅が広く浅い布野の渡しは、川留めになることが少なく、旅人には都合がいい。
その渡し場があったとされる千曲川の岸辺を訪ねた。旧福島宿の西寄り、河川敷に広がる果樹園の農道を突っ切れば、夏草の生い茂る向こうは、川底も透けるゆったりした流れだ。近くを2009(平成21)年11月完成の新村山橋が堂々と横切る。
思えば、人が大河を渡ることへの飽くなき挑戦だった。長らく渡し舟に頼った歴史が明治の初め舟橋に変わる。さらに終わり頃には、木材を組み立てた木橋になる。こうして1926(大正15)年、渡河技術を結集し、鉄橋へと飛躍させた交通革命の成果が旧村山橋だ。
時あたかも河東地域は、須坂町を頂点に蚕糸業の真っ盛りだった。製糸家たちの働き掛けで信越本線長野—豊野駅間に吉田駅(現北長野駅)が開業する。いわば糸の町須坂の新たな玄関口だ。
製品の生糸が横浜港へ送り出される。原料繭は遠く県外からも運ばれる。燃料の石炭なども多い。
狭くて不安定な木橋を荷車や馬車がガタゴトと往来した。それを考えただけでも、川幅800メートル余りのところに鉄路を通したことが、どれほど画期的だったか想像できる。
技術的にも資金面でも困難な事業を打開したのが、23(大正12)年設立の長野電気鉄道だ。県道の橋を架け替える必要のあった長野県と組み、鉄道・道路共用で開通させる。全国的にも珍しく新村山橋でも踏襲される方式を編み出した。
長野—須坂間を開通させた長野電気鉄道、先行して屋代—須坂間を走らせる河東鉄道。共に佐久の神津藤平が社長であり、合併して今日の長野電鉄が誕生する。鉄のシルクロードが、千曲川沿いに太く広がることでもあった。
2022年6月18日号掲載