東西南北つなぐ充実路線
三里先きの
風呂に往て来ぬ
夏の月
伊藤松宇
前書きを読めば一句の意味が、なおはっきりする。〈丸子電鉄の上田市迄(まで)延長せしを祝して〉。身近な電車が、地域の代表的な街へつながることを喜んだ。3里約12キロ、少しばかり遠出し、風呂を浴びてきたという庶民のささやかな楽しみである。
作者の伊藤松宇(1859〜1943年)は現上田市上丸子生まれ。家業の藍取引を通じ渋沢栄一の下、実業界の経験を積む。傍ら俳人として俳諧の近代化に、正岡子規とも交流しながら挑んでいる。
前書きに登場の丸子電鉄とは、1918(大正7)年11月21日、丸子町と信越線大屋駅との間に、新規開業した民営の丸子鉄道のことだ。7年後には上田市街の東部に上田東駅を造り、終点としている。
官営の信越線上田駅は、当時の繁華街・北国街道から離れた千曲川原に設けられた。対照的に上田東駅は、街道沿いで最もにぎわう海野町の東側だ。丸子町からは私鉄が、中心街に乗り入れたことになる。
丸子鉄道の創業には、地元の製糸家たちが深くかかわった。千株の株式募集に3千を超える応募があるほど熱気を帯びた開通であり、延長である。
これを皮切りに上田盆地に、東西南北を結び合わせる私鉄網が備わっていく。新しく開けた上田駅周辺から千曲川を渡った左岸、三好町を起点に21(大正10)年6月、上田温泉電軌が県道を利用した路面電車の青木線を開通させた。さらに途中の上田原で分岐し、専用の線路を山裾の温泉へと別所線を通す。
上田市誌近現代編(4)によると、用地を沿線住民が寄付した。馬力の弱い電車が急勾配で動けなくなるや、乗客が降りて押すなど手助けもした。青木線では養蚕の季節、繭2袋まで持ち込み料金を取らない。私鉄ならではの地域との絆が強い。
別所線の下之郷駅からは、丸子の中心の西寄りに延ばす西丸子線を敷いた。時を同じくして上田—丸子間を上田温泉電軌と丸子鉄道が競い合う。
残る私鉄の空白地帯は北部、菅平や地蔵峠のふもと真田地区となった。真田一族のルーツとされる一帯だ。大正期の村である長(おさ)・傍陽(そえひ)・本原・殿城・神科5カ村は、結束して上田温泉電軌に鉄道の建設を働き掛ける。
山坂の多い工事だけに交渉は難航。村が資金確保、用地買収などを引き受ける条件で27(昭和2)年から翌年にかけ、北東線開通の念願がかなった。
この北東線を真田線と傍陽線に分ければ、上田盆地の私鉄は合わせて7路線、総延長57・2キロに及ぶ。長野県内では抜きん出て私鉄網が充実した。蚕都上田の頼もしい支え役だ。
2022年7月16日号掲載