製糸の片倉が推進役担う
北安曇郡歌
町村数は 十七の
中にも池田 大町は
郡内百貨の 輻湊地
五穀 蚕業 麻 煙草
造林 開墾 年々に
輸出の額も いと多し
かつての塩の道に沿ってJR大糸線は、北アルプスの玄関口松本と信州に一番近い海の町・糸魚川を結ぶ。中央本線・篠ノ井線を介し、太平洋側と日本海側を横断する意味も持つ。
その端緒を開いたのが大正期の私鉄、信濃鉄道だ。推進役の主役が生糸業界トップ、片倉製糸だった。ともすれば歴史の断片に埋もれがちな一つ一つを、信州シルクロードは記憶によみがえらせる。
1899(明治32)年「信濃の国」を作詞した浅井洌は4年後、同じようにご当地の地理風土を織り込んで「北安曇郡歌」を作った。どんな風土に信濃鉄道が敷設されたか、歌詞の随所に浮かび上がる。
製糸の盛んな池田、大町には、産物がさまざま集中する。穀物に蚕糸、麻、煙草…。そんな安曇野に鉄道を敷く明治末期の計画が頓挫。大正に入り再出発の際、求められて乗り出したのが、片倉の松本進出を成功させた4人兄弟の3男今井五介だ。
1914(大正3)年、信濃鉄道の社長に就くや現場で陣頭指揮し、一気に工事を進める。難しい梓川の架橋に当たっては、片倉組の作業員100人を応援動員、昼夜兼行で仕上げた。こうして16(同5)年7月5日、松本—信濃大町間を開通させる。
ただし、私鉄によって大糸線が開かれたのはここまで。この先、糸魚川へは国鉄が引き継ぐ。戦後の57(昭和32)年、県境の未開通部分が完成し、ようやく松本—糸魚川間105・4キロが全通する。
1世紀を超える過去を振り返りつつ、各駅停車の電車で糸魚川へ向かった。北アルプスのふもと、一面みどりの中の岩と川と湖の景色がぐっと谷深くなると、北安曇郡小谷村の南小谷駅だ。ここを境に大糸線の様相は、がらり大きく変わる。
松本からの70.1キロは電化され、新宿発特急あずさも1日1往復する。糸魚川までの35.3キロは電化されないままディーゼルカーに頼る。それも1日7往復、全くのローカル線だ。
運営の主体が南小谷以南はJR東日本、以北は西日本という違いもある。それゆえ別の問題が生じる。
糸魚川駅から新潟や富山方面に行くには北陸新幹線か、旧北陸本線を引き継ぐ第3セクターえちごトキめき鉄道、あいの風とやま鉄道に乗るしかない。つまりJR西日本の中で南小谷以北は、在来線の孤立した飛び地となる。
災害復旧や赤字問題に直面するたび、存廃問題が浮上する背景でもある。いっそJR東日本に組み入れれば、などとつい思った。
一口メモ[街道のイロハ=旅籠の食事]
旅籠は食事付きの宿、夕食と朝食が提供される。ふつう一汁三菜が基本。ご飯にみそ汁、お新香、魚料理、野菜の煮物といったもの。庶民の日常より少し上等。
(2022年7月30日掲載)