長野→横浜そして長野へ 気持ち新たに再び藤屋で
3年間の約束でオランダ・アムステルダムのホテルで働いたフィアンセの由良正史さんが帰国した翌年1968年3月、彼が藤屋へ婿養子に入るかたちで私たちは結婚しました。
夫となった正史さんは優し過ぎるくらい優しい人でした。しかし、世界のホテル業界の最先端を行くヨーロッパで勉強してきた彼にすれば当時の藤屋の仕事は、同じ業界といえどもそれがまるで役に立たない世界だったと思います。一方、社長であった父の常夫さんは、それまでの藤屋のやり方をかき回されるような不安があったのかもしれません。古い旅館の中で仕事を続けていくことは、しょせん無理なことだったのかなとも思いました。
結婚から1年が過ぎた69年3月、私は長女・香苗を出産します。それから何カ月かたった頃、夫から藤屋を辞めて外に出たいと告げられました。どうするかを問われた私は、「子どもも生まれて家族なんだから、もちろん一緒に行くよ」と答えました。
この時、寝たきりだった祖母甫は、「2人とも藤屋に残るべき」と強く引き留めてくれましたが、結局親子3人で横浜へ引っ越すことに。夫はすぐに横浜の大きなホテルに就職を決め、私は一人で立てるようになったばかりの娘の育児をする毎日でした。それから1年ほどが過ぎた71年2月に長男・大史郎を授かり、私は姉弟2人の母親になりました。
しかし、この翌年の2月に図らずも離婚します。藤屋を出て2年半近くがたとうとしていた頃のことです。私はテレビで生中継されていた軽井沢のあさま山荘事件を見ながら、子どもたちを連れて長野に戻る荷造りをしました。今になって思えば、私が藤屋から離れることができなかったのだと思います。父の常夫さんは、結婚する時も別れる時も「自分で決めたことならいいよ」と承知してくれました。常夫さんは、私に対して子どもの頃から常に対等な人として大事に見てくれました。今でも感謝しています。
大好きだった祖母甫が90歳で亡くなったのは、横浜に引っ越して間もない頃でした。長女が生まれて半年間くらいは、藤屋の仕事をしながら、娘を祖母の横に寝かせて2人の世話もしていました。甫おばあちゃんは、いつもしゃんとした明治の気丈な女性でした。半面とてもおおらかで面白い人でもありました。最後まで甫おばあちゃんのお世話ができなかったことだけは悔いが残り、今も申し訳なかったと心が痛みます。
72年2月、3歳と1歳の子どもを連れて長野へ帰ってきました。父母らは新婚の時に使っていた部屋をそのまま残してくれていました。遊んでいたわけではなかったのですが、落ち着いて少しすると藤屋の従業員のご主人の紹介で、私は県庁施設課の臨時職員として働くことになりました。この時は長女を善光寺の保育園に、まだ赤ちゃんだった長男を県庁近くの乳児院に預けました。朝、藤屋の車を借りて2人をそれぞれの場所へ送ってから県庁へ8時半に出勤。夕方仕事が終わったら朝とは逆にお迎えに行って帰宅。それから夕飯を作って食べさせてという生活を1年間続けました。いずれは藤屋で働くつもりでいたので、「それならば」ということで、年度終わりで県庁を辞め、73年4月から気持ちも新たに再び藤屋で働き始めました。この時私は30歳、社長の常夫さんは56歳、おかみのいち子母は50歳、5歳違いの弟弘も大学卒業後、藤屋に就職して4年が過ぎようとしていた時期でした。
聞き書き・中村英美
2023年2月11日号掲載