地元の音楽家らが生演奏 2、3カ月に1回—5年間
私が本格的に仕事をするようになった70年代後半(昭和50年代)の藤屋には、主に善光寺詣での団体や営業職の方たちが宿泊されていました。中でも、明治から続く善光寺参拝の「講」で、東京・新宿の「月信講」は古くから藤屋を常宿とされていました。いわゆる常宿契約の印である講の名前を記した大きな木の看板をお預かりしてきました。年に1回、100人くらいの団体でお見えになっていましたが、この人数を超えたときは、ほかの宿をご紹介して分宿していただいたこともあります。
ほかにも千葉県富津市の大乗寺さんというお寺の講の人たちもよくいらっしゃいました。漁村の人も多く、観光バスを待つ間、ご婦人らが、玄関のロビーで大きな声で歌いながら踊っていらした姿が今も目に焼き付いています。
この後時代が進み、旅行の形態が変わってくると講に参加する人数も減り、2000年代に入ると月信講の人たちは20〜30人までになります。藤屋が今の形態になって、講看板はお返ししましたが、今も講元のご親族がレストランにいらしてくださっています。
地元では、藤屋をひいきにしてくださるお客さまたちが「藤の会」をはじめとするさまざまなグループをつくって藤屋を盛り上げてくださっていました。
県日中友好協会の人たちもよく見えていました。いち子母は藤屋に嫁いできた頃から同協会に籍を置き、当時は役員も務めていました。そうした関係で藤屋にいらっしゃっていた同協会役員で、後に日本医師会会長や同協会会長を歴任され、「藤の会」会長まで務めてくださることになる花岡堅而さん(1910〜97年)が、「こういう所で生の音楽を聴きたいね」とおっしゃいました。地域の人たちが気軽に藤屋に来るきっかけになり、さらには地元の音楽家の発表の場づくりにもなるのではと考えた私は、いち子母と小さな演奏会「藤屋ファミリーコンサート」を企画しました。
第1回は、79年3月。知り合いの、当時長野西高校教員でビオラ・バイオリン奏者伊東達雄さんと奥さまでソプラノ歌手の朝子さんご夫妻に出演いただきました。30人ほどの参加があり、会場のサロンはいっぱいに。次からは100人が入れる食堂に会場を移しました。
地元出身の演奏者を中心にピアノ、フルート、シャンソンなどいろいろな人たちをお呼びして、2、3カ月に1回のペースで開きました。
その年の冬、戸隠のロッジ「タンネ」が開いていたコンサートに初めて伺いました。雪をバックにろうそくの火を並べたロマンチックな会場で、日本のフラメンコギターの第一人者として活躍されていた伊藤日出夫さんの演奏を楽しみました。とてもすてきな時間をいただいた私は、「藤屋にも来てくださいますか」と、気づけば伊藤さんにお願いしていました。すると快くお引き受けくださり、翌年には、ファミリーコンサートでの演奏がかなったのです。私が大好きだったテレビ時代劇「鬼平犯科帳」のエンディングテーマのリクエストに応えてくださり感激したのを覚えています。
ファミリーコンサートは84年4月まで5年間で計24回を重ねました。毎回、地元の人たちが楽しみに来てくださるのがうれしくて、それがモチベーションになりました。藤屋で会食してくださる地元のお客さまが増えることにもつながっていきました。
聞き書き・中村英美
2023年2月18日号掲載