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14 画家としての決意

個展のたび手応えと喜び 作家人生が大きく広がる

1991年、ギャラリー82で開いた個展で、八十二文化財団初代専務理事の戸谷邦弘さん(左)と私

 長野に帰ってからは、子育てにおいても作家活動においても、両親が私の画家としての活動を全面的に応援してくれました。両親の協力がなければ、3歳の娘の子育てをしながら作家活動を続けることは不可能だったと、心から感謝しています。

 ながの東急百貨店別館シェルシェでの個展を経て、中部電力のショールーム「エレパルながの」でも個展をし、東京や京都でも花の絵で個展を開催しました。そして、設立され数年目だった、八十二文化財団のギャラリー82で1991年に初めて個展を開催しました(その後2005年まで計7回開催)。その頃にはキャンバスの大作も制作していたので、シェルシェでの初個展で展示した数倍のサイズの大作を何点も展示しました。繰り返し見に来てくださる人が増え、「小さな作品だったら買いたいけど、ここにある作品は大きすぎて家に飾れないよ」というお声をいただくようになりました。

 蚕室を改装したアトリエで描いてきましたが、作品サイズがどんどん大きくなって仮り造りのアトリエは手狭になり、実家から歩いて数分のところにある父の畑に、新たにアトリエ兼住居を建てようと決めました。まだ小学校低学年の娘の将来を考えると、ローンを組んで建てるかどうかはとても悩みましたが、両親の後押しもあり、地元の工務店にお願いして、大まかなレイアウトは私が設計し、メインの30畳のアトリエスペースに最低限の住居機能が付いた家を建て、小学3年生になっていた娘と2人でそこに移りました。アトリエが広くなったおかげで、全ての作業が楽になり、描く途中で遠くから画面を検証することができるので、全体を描き込み過ぎて平板になりがちだった絵画空間が変化に富んだものになりました。

 ギャラリー82ではアトリエ兼住居ができた翌年に2回目の個展を開きました。お客さまの反応を思い出し、小さい絵を描いたら少しは売れるだろうかと淡い期待をして展示したところ、思っていた以上にたくさんの作品が売れて驚くと共に、それまで味わったことのない喜びを感じました。その当時は、私が大学を卒業後に発表していた東京の現代アート界隈では、個展を開催しても、作家仲間や美術関係者が来て評論の対象として見るだけですから、収入は別の仕事から得て作家活動をするというのが常識でした。ところが、長野では絵が好きな普通のお客さまが、気に入ったら自宅に飾るために作品を買ってくださるのです。そのギャップに驚き、長野を拠点にして画家としてやっていこうと決意も新たにしました。

 寒さに向かう季節だったので、売り上げでストーブをいくつも買ったことを覚えています。娘は自分の家ができたことをとても喜んでいましたが、畑の中に建てたので周辺は家も少なく、特に北側は全く人家がなく、夜になると本当に真っ暗だったので、心配した父が夜だけ泊まりに来ていました。そのうちに、私が東京の個展で1週間留守にする時は母も泊まり込みで来て、いつの間にか狭い家に両親と4人暮らしのようになっていきました。

 長野と東京で活発に作品を発表し、個展を開けば新たにファンになってくださる人が増えていき、マスコミも取材に来てくださり、頑張れば頑張るほど手応えを感じました。週刊長野の仕事だけでなく、その後に信濃毎日新聞で挿絵を描く仕事もいただきました。ラジオやテレビのゲストとして呼ばれることもあり、交流関係も広がりました。東京の企業の長野支店に転勤で来た人たちと知り合い、東京に戻られた後も、私を気にかけてくださりお世話になることも増えました。

 長野市に来たことで生まれた数々の人とのつながりが、その後の私の作家人生を大きく広げてくれました。

 聞き書き・松井明子


2023年9月9日号掲載

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