飯綱に小山利枝子絵画館 常設展示の場所を提供
「小山さんの作品を常設展示させてもらえないか」
吉野孝さんからお誘いを受けたのは1995年、東京の「スカイドア・アートプレイス青山」での2回目の個展会場でした。初対面の吉野さんは小柄で年配ながら、普通の人にはないオーラを持っていました。飯綱高原にお持ちの奏楽堂を小山利枝子絵画館という名前にして作品を常設展示したいというご提案に驚き、初めて会った吉野さんをどう捉えて良いのか判断できず戸惑いました。吉野さんは長野市周辺のごく限られた人のみと注意深く交流をされていたようで、飯綱在住にもかかわらず、多くの人に尋ねてもなかなか知る人がなく、ようやく「確か習志野市長を務めた人です。お誘いを受けても問題ないでしょう」と教えてくれる人が現れて安心し、飯綱に吉野さんを訪ねました。
吉野さんがつくられた「いいづな高原美術館」は、敷地内の三つの建物で構成されていました。ご自宅に隣接した「聴松墨林」と名付けられた建物には、書道家の金子聴松氏の作品が展示され、鬼無里から移築された築百数十年の寄棟造りの民家は「春灯庵」と名付けられた工芸ショップとカフェ、そして時折コンサートが開かれる、グランドピアノを備えた高い三角屋根の洋風建築の奏楽堂に、私の作品を常設展示し小山利枝子絵画館と名付けたいとのご提案でした。
建物の周囲に林立する樹木の間を埋めるようなアジサイの淡いブルーの美しさが、吉野さんの美意識を物語っていました。吉野さんは国立音楽大学の楽理科卒でクラシック音楽への造詣が深く、4期務められた習志野市長時代には音楽をはじめ、さまざまな文化振興に尽力され、音楽を志す子どもたちをウィーンに連れて行くなど教育にも熱心で、学生の研修合宿のために飯綱音楽の森をつくり、その縁で飯綱に住居を構えられたようです。雪深い冬の期間は千葉県に戻る2拠点生活をされていましたが、市長時代の部下や交流していた数々の音楽家が足しげく吉野さんのもとを訪ねられ、私にさまざまなエピソードを教えてくれました。
奏楽堂の左右3面に大きな作品を飾り、奥にあるギャラリースペースにも作品を展示しました。吉野さんは場所を提供し、私は作品を展示するというシンプルな約束で、そこに金銭のやり取りはありませんでした。練馬区立美術館学芸部長(現呉市美術館館長)の横山勝彦さん立ち会いのもと最初の展示をし、オープニングパーティーは、長野市の諏訪角商店社長の諏訪勇さんがすてきなお料理の数々を提供してくださり、県内外から多くの人が訪れて華やかでした。
当初、自分の展示場所として活性化したい思いで、年ごとに展示テーマを決めてイベントを開くなど集客に努めましたが、時とともに吉野さんは知らない人が大勢訪れることをあまり好ましく思っていないと感じるようになりました。「いいづな高原美術館」は吉野さんのプライベート空間でもあり、静かに過ごしたいとの思いがあったのかもしれません。長年政治家を務められ、数々の文化人と交流し、食通であり、随筆集や恋愛小説までも出版され、私には想像すらできない奥行きを持った吉野さんが、私を応援してくださった気持ちにうまく応えられないことに、自分の未熟さを知る経験でもありました。
吉野さんは2007年に千葉に戻られ、小山利枝子絵画館も12年間で終了しました。今アトリエに、吉野さんがはがきに墨で書かれた「より美しく」という端正な文字を飾っています。吉野さんは2013年に他界されました。
聞き書き・松井明子
2023年9月30日号掲載