「普通」と違う子育て環境 試練を経て娘も私も成長
長野に戻り、娘が大学入学のために上京するまでの長い間、私は家族が寝静まる夜10時ごろから描き始め、空が白々と明けてくるまで描き続けることも珍しくないような昼夜逆転の生活をしていました。
娘が学校に登校する朝方の私は、ぼーっとしているか寝ているかで、娘の世話はほとんど母に任せ、制作中心のマイペースな日々を送っていたのです。私は作家として認められるために一生懸命で、日々の基本的な家事のほとんどを母に頼っていました。無名の画家の作家活動は、努力がそのまま報われるわけもなく、私は焦りや愚痴を、フリーランスで活動している東京在住のデザイナーや作家仲間との会話で紛らわせたり、励まし合ったりしていました。
今と違い、リアルタイムでの通信は電話しかなく、娘が学校から帰ってくる頃にもよく長電話をしていて、娘はそんな母親の暮らしぶりを半ば諦めて、仕方ないと受け入れていたようです。「お母さんの作家活動を邪魔してはいけない」と、子どもながらに我慢もしていたのでしょう。ミュージシャンや絵描きなど、型にはまらない生き方をしている友人たちが訪ねてくることもよくあり、夜遅くまで続く語らいを、娘は部屋の隅でおとなしく聞き耳を立てていました。
「普通の家庭」とはかなり違った環境で育った娘は、幼い頃から周囲に気を使うようなところがあり、わがままを言って困らせることのない子でした。基本的な世話は母に任せっぱなしの私でしたが、娘とはずっと仲が良く、いつも楽しくさまざまなことを話していました。私は折々に自分が感じるこの世界の美しい物事を幼い頃から娘に話して聞かせ、2人で京都や東京にたびたび旅行に行きました。そんな環境で育った娘は、年齢より大人びた性格に育っていったと思います。
友人に対しても気遣いをし過ぎるところがあった娘は、何かのきっかけで友人との仲がうまくいかなくなり、中学2年の秋ごろから学校に行けなくなりました。学校に行くとおなかが痛くなってしまうのです。
休ませ続けると登校を再開するハードルが高くなると考え、とにかく朝は学校まで車で送って行きました。しかし、私が帰宅するとすぐに、「やはりおなかが痛いと言っていますから、迎えに来てください」と、学校から電話がかかってくるので、学校にとんぼ返りし娘を車に乗せ、いつもそのまま2人で白馬の温泉に行きました。白馬の行き帰りは車窓の美しい景色を見ながら、「今は長く続くと思っている中学生活なんて、後から思い返せばほんの短い時間。未来を考えよう」と励ましつつ、学校とは無関係な楽しい話をしました。
3年生を前に受験が迫りつつあり、このまま勉強が遅れることで行ける高校の選択肢が限られ、娘の個性に合う高校に入れなくなってしまうことはとても心配でした。そこで、既に退職された、娘が小学校低学年の時の担任だった先生に、アトリエで数学教室を開いていただきました。先生は快くボランティアで引き受けてくださり、村山に住んで娘と同級生だった子どもたちも交えて、毎週土曜日の勉強会になりました。また、ご縁のあるお2人に、それぞれ理科と英語を教えていただきました。娘の勉強を通してお世話になった皆さんはとてもすてきな人たちで、今も交流させてもらっています。そして、中学の学級担任の先生は、娘の気持ちを100%受け入れてくれて見守ってくださったので、安心してこの時期を乗り切ることができました。
娘は3年生になった頃から徐々に学校に行けるようになりました。秋の文化祭では新しい友人と2人でユニットを組みギター演奏と歌を披露するなど、すっかり立ち直り志望校にも入学できました。
私は、不登校の子どものつらさや、それを見守る親の苦しみを身をもって知りました。この試練を経て娘も私もそれぞれに成長でき、今では楽しい思い出となりました。
聞き書き・松井明子
2023年10月7日号掲載