永さんが落語会に出演依頼 数年後 藤屋で「やりたい」
落語家の立川志の輔さんが藤屋に初めて見えたのは、1987年11月のことでした。藤屋博覧会後、こういうにぎわいを街に広げようと、永六輔さんが企画した「大門曼荼羅(まんだら)」で、永さんがゲストの一人としてお呼びしたのです。
永さんはイベントに、落語を組み込んで善光寺にまつわる古典落語「お血脈(けちみゃく)」を演じてもらおうと考えていました。それで永さんが、当時仲が良かった立川談志さんに相談すると、談志さんは「弟子の志の輔を連れていけ」とおっしゃり、永さんは志の輔さんに直接電話で出演をお願いしたのだそうです。
その頃の志の輔さんは、談志さんに入門して4年目、二つ目の落語家さんでした。志の輔さんは、永さん直々の電話に驚いたそうですが、すぐにお引き受けくださり、当日いらっしゃった時には「お血脈」を「一生懸命練習してきた」とおっしゃっていました。このときは、藤屋の大広間と、向かいのそば屋「大丸」さんの2カ所で高座に上がり、会場を大いに沸かせてくれました。
それから数年後、当時城山にあったNHK長野放送局の仕事で長野に見えた志の輔さんは、大丸さんでおそばを召し上がった後、一人で藤屋を訪ねていらっしゃいました。ちょうどフロントにいた私とあいさつを交わすと、おもむろに「この間みたいな落語会を藤屋さんでやりたいんです」と言うのです。私は「空いていれば会場は無料でお貸しするのでいつでもどうぞ」と快諾しました。
ただこの時、せっかく長野まで来てくださるのに、藤屋だけではもったいないと思った私は、もう1カ所ほかの場所で開くことを提案すると、「呼んでくださるのなら」とおっしゃったので、村おこしのためにぜひ呼びたいと希望があった戸隠で開いていただけるように計画しました。
志の輔さんが、談志さんに入門された83年、談志さんは一門と共に落語家協会を脱退したため、立川流の方たちは「定席」に上がることができず、会場は自分たちでつくらなければなりませんでした。
それで94年から始まったのが「志の輔落語の夜in藤屋」です。「大門曼荼羅」の時と同じ2階の広間を会場に、私の友人知人を通じてチケットを販売。100人くらいでいっぱいの会場は満席になりました。それからは毎年1回、藤屋と戸隠の2カ所で演じてくださるように。藤屋がレストランになってからも続き、コロナの影響でお休みを余儀なくされるも、今年28回目の開催も決まりました。
志の輔落語が始まって長いこと私は、忙しがっていてちゃんと話を聞いたことがありませんでした。しかし、いつしかその魅力にはまってしまい、今は藤屋をはじめとして東京や志の輔さんの出身地富山にまで年に5、6回の「推しめぐり」をするほど熱心なファンになりました。10年ほど前の2012年には、航空会社が現地邦人のために毎年志の輔さんをお呼びして開いている落語会がベトナム・ホーチミン市とシンガポールであり、友人と3人で旅行をかねて聴いたこともあります。
藤屋が結婚式場兼レストランに業態転換して10周年の16年の藤屋公演の時には、志の輔さんは「いつも親身になってよくやってくれるスタッフのために演じたい」とおっしゃって、夜の公演に先駆け14時からスタッフを招いて一席演じてくださいました。
藤屋の落語会は、私どもは志の輔さんを永さんが連れていらした落語家さんとして、志の輔さんからすると、(藤屋は)永さんが初めて連れてきてくれたところだからと、お互いにお互いを大事に思うから今も続けられているのだと思っています。
聞き書き・中村英美
2023年3月25日号掲載