「藤屋のためになることを」 呼び掛けを機に本づくり
私が9歳の頃、諏訪から藤屋に嫁いできたいち子母は、早くから県日中友好協会に入り長く役員も続けていました。その関係もあって、医師の花岡堅而先生(1910〜97年)が度々藤屋を訪れてくださいました。花岡先生は戦時中に軍医として中国北部で従軍した経験があり、戦後、県日中友好協会で活動され、85年から94年まで同協会会長、並行して全国の日中友好協会副会長を歴任されました。
また、吉田に吉田病院を開いた花岡先生は県医師会長を経て、82年から84年にかけては日本医師会長を務められました。
花岡先生が日本医師会長を辞めて長野に戻られた1985年のことです。藤屋に出入りされていた医師で県日中友好協会副会長の中島深水さんや、八十二文化財団専務理事だった戸谷邦夫さん、藤屋の利用者らでつくる「藤の会」会長だった吉田武夫さんらが中心となり、花岡先生を囲んで語り合う談論風発の会、略して「談風会」が藤屋にできました。年に4回ほど、約30人が参加して開いた会は、毎回交代でテーマを設けて卓話を行い、意見交換した後、花岡先生がまとめの発言をして締めくくっていました。花岡先生のお話がとても魅力的で、それを聴きたいばかりにいらっしゃっていた人もたくさんいたようでした。後の宴会では皆さん思いのままに楽しそうに語らっていました。
そんな楽しい会が5、6年続いた頃のこと。花岡先生が談風会に、「飲み食いばかりしていないで何か藤屋のためになることをやろう」と呼び掛けてくださったのです。花岡先生は「『談風会』というのはもっと奥を見れば『藤屋を愛する会』ということなんだよ」とお話しされました。「じゃあ、どうしようか」というので、皆さんボランティアで藤屋の本を作ってくださることになったのです。
談風会には、著名な建築家、世界で活躍なさっていた石の彫刻家、書家、美術史家、郷土史研究家、出版人など、当時一流の文化人といわれるような人たちが集まっていました。
花岡先生は「長野の誇りであり、明治・大正のロマンあふれる藤屋を見直すことで、それをいかに大切にしていくかを考えるきっかけに」との思いで、本づくりを進めてくださいました。
藤屋の建物や庭など建築のことから、その歴史や宿泊した著名人、藤屋に残る書や美術品のこと 、当時ひいきにしてくださった皆さんの藤屋の思い出、大門町をテーマにした座談会などが盛り込まれました。私は永六輔さん、立川志の輔さん、ピーコさんに手紙で寄稿をお願いしました。
皆さんの原稿がそろって本が完成に近づいてきた91年ごろのことです。花岡先生が脳卒中で倒れて入院されたのです。先生の下、準備が着々と進められてきた本は先生の扉の文を待つだけのところまでになっていました。そこからは1年くらい、先生がお元気になるのを待って原稿を書いていただきました。
そして94年3月、「藤屋を愛する会編」制作の「御本陳 藤屋」が龍鳳書房から刊行されました。こちらからお願いしてできたのではなく、皆さんの熱意で作っていただいた本です。これ一冊で藤屋のあらゆることが分かります。今、手に取って見返しても、作っていただいてよかったと心から思える素晴らしいものです。今お金を出したとしても二度とこういう本はできないだろうなとも思います。協力してくださった人たちに感謝しかありません。
本に関わってくださった多くの方は亡くなってしまい寂しい限りですが、今は新入社員が手に取れる場所にこの本を置いて見てもらっています。
聞き書き・中村英美
2023年4月8日号掲載