22年前より縄張り数激減 このままでは絶滅—実感
50歳を過ぎ、「サイエンス」「ネイチャー」といった世界的権威のある科学誌に相次いでカッコウの論文を発表し、世界最先端の研究を極めることができたと実感しました。前だけを見て走り続けて、ここでようやく過去を振り返る気持ちの余裕が生まれました。そこで見えてきたのは、子どもの頃の原体験の重要性です。
世界の鳥の研究者が解けなかった謎を私が解明できたのは、多数のカッコウを捕獲できたこと、発信機やセンサー付きカメラなどの光学機器を駆使した研究ができたからです。それができたのは、子どもの頃の遊びを通して身に付けた直観力や洞察力にあることに気付きました。
また、振り返って気になったのはライチョウでした。私にとってライチョウの研究は、恩師・羽田先生の研究テーマでした。その羽田先生は、私が50歳を過ぎた頃に亡くなりました。カッコウの研究で海外を訪れる機会が多くなっていた私は、アリューシャン列島やアラスカ、ノルウェー、スコットランドなどでライチョウを見ました。いずれも人の姿に気づくと逃げてしまい、人を恐れないのは日本のライチョウだけだと知りました。その理由には、里山は人の領域、奥山は神の領域としてすみ分け、高い山には神が宿るという山岳信仰を持った日本文化が深く関係することに気付きました。奥山にすむライチョウは「神の鳥」として守られてきたのです。
その後、日本のライチョウはどうなっているのだろうか。50歳を過ぎて、ライチョウの研究を再開することにしました。
2003年9月、最初に訪れたのは、南アルプスの北岳と間ノ岳(あいのたけ)でした。22年前の1981年にライチョウを調査した山で、南アルプスで最も生息数の多い山でしたが、ライチョウは観察されず、ふんや羽などの痕跡をわずかに観察したのみでした。ライチョウに異変が起きていると直感した私は、すぐに環境省にこの状況を伝えました。
翌04年、白根三山一帯の縄張り分布を調査すると、1981年に北岳から間ノ岳で確認された縄張り数63が18に激減していました。また、火打山、乗鞍岳、御嶽山、南アルプスの仙丈岳などでも調査をすると、多くの山で減少傾向にあることを知りました。
ここで、恩師の羽田先生が全山のライチョウの縄張りと個体数を調査した意味が私にも理解できました。資金を工面して、今調査しておけば、将来必ず役に立つことが当時の先生には見えていたに違いありません。
03年、北岳にライチョウ調査に訪れて驚いたことがもう一つあります。1981年の調査では見られなかったニホンジカやニホンザルが高山にいたことです。これら低山の動物が高山に侵入して食べているのは、ライチョウの餌となる高山植物です。翌04年からは、北岳と間ノ岳一帯のライチョウ調査を毎年実施することにしました。
温暖化が進行すれば、ライチョウがすめる高山環境がさらに狭められます。
それまで世界最先端の研究を目指していた私は、自然保護や野生動物の保護には関心がありませんでした。羽田先生がそれらすべてを引き受けており、私が口を出す必要はなかったのです。このままでは、確実にライチョウは絶滅することを実感した私は、ライチョウの保護にも取り組む決心をしました。
私は、羽田先生が善しとしなかった、捕獲して足輪を付けて調査する方法を実施することに決めました。保護には、ライチョウの寿命、年齢構成、繁殖成功率など、個体識別に基づいたさまざまなデータが必要不可欠です。
04年から乗鞍岳で本格的にライチョウ調査に取り組むことにしました。
聞き書き・斉藤茂明
2024年6月15日号掲載