21 姨捨俳句大賞

「句集大賞」のアイデア採用 2回で終了もったいない

姨捨俳句大賞の表彰式。左から島田牙城さん、仲寒蝉さん、小沢實さん、筑紫磐井さん、以降は入選者=2017年9月

 千曲市の姨捨は、松尾芭蕉をはじめ多くの文人墨客が訪れた文学と名月の里です。千曲市辺りは、俳句の盛んな地域と言えるでしょう。僕のひいお爺さんも「生仏」という俳号で俳句を作っていました。「信州さらしな・おばすて観月祭」の全国俳句大会が始まったのは1984(昭和59)年のことです。

 俳句大会のルーツといえるのは、戦後間もなく創刊された俳句誌「俳文学」ではないでしょうか。須坂市生まれの俳人で一茶研究家の栗生純夫(1904〜61年)の弟子の斎藤臥竜さんが始めました。一緒に編集をしていた稲荷山の伊藤文緒さんから頼まれて僕は後に「俳文学」の表紙を彫っていました。俳句も何回か載せてもらいました。「俳文学」は後に「るつぼ」に名前を変えて、この地域の俳句愛好者の中心的存在でした。

 俳句大会の立ち上げは、その伊藤さんたち「俳文学」の仲間の力が大きかったのです。しかし当時、主催者側には姨捨が「俳句の聖地」という意識は薄く、観月祭も俳句大会も観光色が強く感じられました。

 伊藤さんは文学としての俳句を研究していた人で、3年か4年で大会から身を引いてしまいました。姨捨の俳句大会はお祭りとは違うという意識が強かったのだと思います。

 2000年代になって、より観光色が強まったイベントとなり、業者への依存度も高くなってきたと思います。13年に「るつぼ」が廃刊となり、市俳句協会も解散し、俳句大会の存続が危ぶまれるようになりました。

 僕はこのままではまずいと考え、俳句のほかに短歌や詩といった短詩型文学の愛好者らに声をかけて「千曲文芸協会」を発足させ、僕が会長になりました。15年のことです。その翌年から同協会が俳句大会の実行委員会を引き受けることになりました。

 そこで始めたのが「姨捨俳句大賞」です。これは、その年に出た句集の中から優れたものを選ぶ「句集大賞」です。これは、その少し前まで佐久市に住んでいた俳人で俳句研究家の島田牙城さんのアイデアでした。選者は、牙城さんが推薦してくれた小沢實さん(長野市生まれ)、筑紫磐井さん、仲寒蝉(なかかんせん)さん(佐久市)と、いずれも現代俳句を追求する人たちでした。

 選考は、事前に入選者を決め大会当日表彰するのでなく、5人程度の「候補句集」の中から、選者が観衆の前で議論を重ねて大賞を決めるというライブ感のある方式を採用しました。なかなか盛り上がりました。

 2回目の大会の時は2週間ほど前、僕は体調を崩して入院し、退院したのは大会の2、3日前でした。大会当日はあいさつをするのがやっとといった状態でした。

 大会が終わって、全国俳句大会の各部門で入選した俳句や、大会当日の俳句大賞を巡る選者の発言要旨などを盛り込んだ句集を作りました。編集が長引いて、完成したのは12月になりました。大会開催から2、3カ月たち、「句集はまだか。どうなっているんだ」といった苦情が寄せられました。市の予算が削られ、結局実行委員会は解散しました。

 全国規模の俳句大会の地に姨捨を育てる可能性もあったでしょうが、関係者も少なく、基盤になるグループも地域になく、姨捨俳句大賞が2回で終わってしまったのはもったいないと思います。

(聞き書き・吉村英樹)

2026年8月1日号掲載

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