愛育園創設の年に生まれる 母は「みんなのお母さん」

私は1948(昭和23)年3月25日、父・幸邦と母・サトエの長男として生まれました。父は、今年開創380年といわれる円福寺(篠ノ井横田)の十九世。「いつも丸焼け円福寺」といわれてきたように何度か火災に見舞われ、寺には古い記録が残っていません。母は隣の地区の裕福な農家の末っ子で、兄の望月重信さんは父の大の親友でした。重信さんはフィリピンで戦死したため、父には母と結婚して、親友の血を受け継ぎたい—との気持ちがあったのではないでしょうか。
私が生まれた時、父は37歳。待望の跡継ぎにかなり期待したと思います。私が「全国赤ちゃんコンクール」の県大会で1位になったことは自慢だったでしょう。その時に撮った両親との写真がアルバムに残っています。そこには出生時の体重940匁(3525グラム)が、当時の新生児の標準体重816匁(3006グラム)と一緒に記されていました。ほかにも、1歳半の私にとを着せた写真などがたくさん並び、その横には歌が好きだった父らしく「いお小僧さん」などと自作の歌詞がびっしりと書き込まれていました。戦後間もない、社会全体がまだ貧しい時代でしたから、わが子の成長にさぞ大きな期待を寄せたのでしょう。今回、私自身、改めてアルバムを見返すと、子どもながらしい姿に驚いています。
私が生まれて間もなく、5月5日の「こどもの日」に、父は児童養護施設「円福寺愛育園」を設立しました。前年、東京・上野駅で引き取った戦災孤児2人は「脱走」してしまいましたが、別の孤児や家庭で育てられなくなった子どもたちが次第に集まってきました。愛育園で育った最初の子どもは、満州(現中国東北部)引き揚げ孤児だった中村さん。彼は、父が自費で屋代東高校、その後、駒沢大学に進学させるなど、よく面倒を見ました。
終戦間近に出征し、復員した父には、孤児たちを何とかしたいとの気持ちがあり、園を始めたのだと思います。ただ、結婚したばかりの母はまだ22歳。食事や洗濯、子どもたちの世話、畑仕事など、大変だったと思います。当時、園の子どもたちも寺の風呂を使っていたため、最後に母が入る頃には汚れでお湯はどろどろ。母が床につくのは深夜0時ごろ、朝の4、5時には起きて仕事をしていました。私も園の子どもたちも、そんな母を手伝い、風呂だきやまき割りは子どもたちの役割でした。園の子どもたちは母のことを「お母さん」と呼んでとても慕っていました。幼かった私は母を独り占めしたい気持ちはありましたが、母はそれを許しませんでした。母は「みんなのお母さん」。私も含めみんなと平等に接していました。
この頃の母との思い出といえば、畑で一緒に草取りをしたことぐらい。ただ、母が栄養士の資格試験のため上京した際に、私の手を引いて連れて行ってくれたことを、うっすらと覚えています。
父は住職、園長として絶対的な存在で、気軽に遊んでくれるような人ではありませんでした。記憶にあるのは怒られたことばかり。代わりにかわいがってくれたのが祖母のでした。当時、完成したばかりの篠ノ井橋に連れて行ってもらい車を見ました。よく私に甘い菓子をくれ、食べ過ぎた私の歯は「みそっ歯(虫歯)」になってしまいました。祖母は私が3歳の時に亡くなりました。祖母が亡くなる前に私は部屋に呼ばれ、祖母から「立派な人になりなさい」と言われ、「はい」と答えたことを覚えています。3年下の妹や7年下の弟には、甘えられる大人がいなくてかわいそうでした。
(聞き書き・斉藤茂明)
2026年9月19日号掲載
