「自分の中の殻を破る」実践 「駅伝大会」を発案し実施

2年生の時、東京大学合格も狙えるまで成績が上がりましたが、3年生になると、勉強のレベルが上がったことや、数学の先生が変わり私と相性が合わず授業に集中できなかったことなどから成績が落ちてしまいました。さらに5月の「校内マラソン大会」では、生徒会長ら20人ほどがいたずら半分で走らず歩くことにし、私もなんとなくその仲間に加わってしまいました。後で先生たちから「少し勉強ができるようになったからといっていい気になるな」と言われ、勉強意欲は下がりました。しかし、浪人をする気はなく、成績は100番前後だった私は、憧れだった旧帝大の一つ東北大学を志望校に決めました。
家では、私も愛育園の規則正しい生活に合わせていたので、夜7時に夕食が終わると11時まで勉強に集中できました。当時は、全科目必修だったため苦手の社会科も5科目授業を受けました。日本史の授業中には退屈のあまり大あくびをして顎を外してしまったこともありました。受験前には、東北大学の実際の試験時間に合わせて過去問題集の「赤本」を繰り返しやるうち、かなり解けるようになりました。ベストを尽くした東北大学の入学試験は合格。合格の電報が届いた時に父は玄関先で大きな声で「万歳!」と叫びました。生物班の仲間とも離れ離れになりますが、これからは受験勉強ではなく「本当の勉強」ができると、将来への希望が大きく膨らんで、寂しさは感じませんでした。
物理や化学、数学が好きだった私が東北大学理学部ではなく工学部を志望したのは、ほかの旧帝大に比べて数学と理科の配点が高かったことと、理科の受験科目が物理のほか、理学部は生物、工学部は化学と指定されていたためでした。生物は、私が長期入院をした高校1年生の時に受けたので分からないところが多く、苦手でした。しかし、工学部に進んだことでいい出会いに恵まれました。
1966(昭和41)年、私は東北大学に入学しました。住まいは「東夷(とうい)寮」に入りました。寮といっても、私が入った「アドベンチャークラブ」のメンバーが借り切っていた一軒家で1階の大広間に20人近い学生が雑魚寝の集団生活をするうち仲良くなっていきました。
アドベンチャークラブは、冒険旅行をするのではなく、「自分の中にある殻を破って、可能性を広げる」を方針にしていて、私はそれに共感しました。「走ることが苦手」という意識を破ろうと、自分に毎日5キロのランニングを課すと、クラブのマラソン大会で30人中6位に入りました。新入生歓迎コンパでは、寮から8キロほど離れた深沼海岸まで歩き、夜、海岸で酒を飲みながら、ベトナム戦争のことなどを話しました。夜光虫が暗闇の波打ち際一面にパーッと光るきれいな光景に感極まって泣いている人もいました。ほかにも、鳴子温泉(大崎市)から仙台市まで70キロ余り歩いたり、後に私がクラブ長になった時には、福島県相馬市から仙台までの強歩ラリーを企画したりしました。
殻を破り自信が生まれたのか、クラブとは別に4年生で応用物理学科の研究室に入ると、「研究室対抗駅伝大会」を発案。言い出した私は、教授会に優勝カップの費用を出してほしいと、2度頼みに行きました。第1回大会は、私が所属する研究室が優勝。今でも、この大会は続いていると聞いています。
寮生活は楽しかったのですが、まったく勉強に身が入りませんでした。入学して約半年後、寮を出て友人数人でアパートを借りて共同生活を始めましたが、やはり勉強に手がつきませんでした。すぐ、3畳間の下宿に移りましたが窮屈で、次に、賄い付きの広めの下宿に引っ越し、ようやく勉強に集中できるようになりました。その後、大学の宏富(こうふ)寮、院生時代は日就(にっしゅう)寮と、計6回引っ越しました。
(聞き書き・斉藤茂明)
2026年10月10日号掲載
