08 高遠高校の新任教員に

一生懸命の一方焦りや不安 自分を鍛えたい—永平寺へ

高遠高校のクラス写真(前列右端が私)

 1972(昭和47)年、大学院を修了し、上伊那郡高遠町(当時)にある高遠高校に新任教員として着任しました。最初の数週間はスーツを着込み、意気込んで通いました。1年目から3年生の物理と数学を教え、物理では極地研で作ったテキスト「運動と力」を高校用に直し、ガリ版プリントにして、グループ討議を中心に授業を行いました。

 この頃、群馬県の島小学校や境小学校で長年、校長を務めた斎藤喜博先生の著書に出合い、先生の本を買いあさりました。20巻ほどの「斎藤喜博全集」をそろえ、第1巻の「教室愛、教室記」に感動しました。教員の仕事は授業であり、よい授業を創造することが教員の真の仕事であると分かりました。将来、こういう教員になりたいと思いました。

 2年目からはクラス担任になり、必死に授業に取り組み、クラス運営にも努めましたがうまくいきませんでした。授業中、教室の後方で生徒同士がけんかを始めても叱ることができず、授業にならないこともありました。大学院を卒業したばかりで、生徒とも10歳ほどしか年齢差がないので、生徒と友達気分のようなところがあったと思います。

 一生懸命ではありました。数学の単位が危なかった3年生の自宅に何度も通い、認定にこぎつけて卒業させました。3月のまだ寒い日で、ヤッケの下に新聞紙を丸めて詰め込んだ急ごしらえの防寒着を着てバイクで家庭訪問をしました。私の頭の中には、何ごとにも一生懸命でとても真面目な生徒を絶対に落とせない—という気持ちがありました。彼は卒業後、大手スーパーに就職し、店長を立派に務めて退職しました。また当時、クラス一番の暴れん坊だった生徒は、60歳を過ぎた今でも同級会を中心になって開き、毎回私を呼んでくれます。2人とも「今あるのは先生のおかげです」と言ってくれます。

 高遠高校での4年間は、いい思い出もありましたが、教員としての実力不足、人としての甘さに焦りや不安も感じました。自分を鍛えたい。一方でいずれは寺を継がなければならないという思いもあり、一度教員を辞めて、曹洞宗の大本山・永平寺(福井県)で修行しようと決心しました。

 永平寺に入山するには作法があり、山門前にある地蔵院で、その作法を習いました。永平寺の山門には木版(もっ ぱん)があり、3回力いっぱいたたく決まりでした。たたいてから数時間たって和尚が出てきました。余裕のある低い声で、問われました。

「尊公(そんこう=あなた)は何をしに永平寺に来た」
「修行をさせていただきたくて参りました」
私が大声でそう答えると「修行などどこでもできる。帰れ、帰れ」。私は必死に、「御開山様のお膝元で修行させていただきたいのです。お願いします」
「ところで、尊公は師寮寺(しりょうじ=自坊・円福寺のこと)からどんな威儀(いいぎ=服装)で来た」
「改良衣(かいりょうい)で来ました」
「なにー、帰れ、帰れ、帰れ!」
 最後は割れるような大声で言われました。

 改良衣とはお坊さんの普段着のことで、雲水(修行僧)の正式な服装の「如法」でなければいけませんでした。私は雲水姿が恥ずかしくて、円福寺から改良衣で来て、門前の店で頭をそってもらい、如法に着替えていました。この日は入山が許されず、地蔵院に戻りました。

 地蔵院に戻ると、ずっと正座か坐禅をしていなければなりませんでした。足は腫れあがりましたが、少しでも足を崩すと、後ろから蹴られ、叱られました。地蔵院には2泊しました。この年に永平寺に入山した106人の雲水で2泊したのは私だけでした。地蔵院での2日間は私にとって人生で最もつらい日になりました。翌日、山門に向かい、同じように問答をしてこの日はすんなりと入山を許されました。

(聞き書き・斉藤茂明)


2026年10月31日号掲載

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