9 永平寺での1年間

起床から就寝まで全て修行 山を下りると人格に変化

 1976(昭和51)年4月、永平寺への入山が許されると、まず「旦過寮」に入りました。ここではひたすら坐禅をしました。少しでも姿勢を崩すと「警策」と呼ばれる木の棒で肩をたたかれました。回廊掃除や食事作法、三拝の仕方、トイレの作法など、永平寺での基本的な作法を叩き込まれました。ここではまだ雲水(修行僧)ではないので、僧堂には入れてもらえず、作務衣も着せてもらえません。掃除は着物をたくし上げて雑巾がけをしました。
 7日ほどで旦過寮を出ると、次の「衆寮」で、雲水としての修行が始まりました。ここでは、鐘のつき方や太鼓のたたき方を覚えました。永平寺では起床や食事、回廊掃除、坐禅…などは、鐘や太鼓の音を合図に行われ、それぞれつき方が異なり、間違えると大変なことになり、罰策をもらいました。

 永平寺では朝起きてから寝るまで全て修行。朝3時半起床(冬は4時半)。鈴を鳴らしながら堂内を走り、起床を知らせる振鈴の当番は2時半起きでした。作法に沿って洗面した後、坐禅を行いました。坐禅中は大梵鐘をつきます。大梵鐘は1分50秒間隔で18回つき(15回目は緩く)、最後の2回は続けてつくので、約30分かかりました。ついた回数を間違えないように小石を18個並べて置き、1回ごとに1個ずらしていきまし

た。起床から約2時間後、「法堂」で朝のお勤め。150人の雲水が声をそろえて読経しました。その後、朝の食事を済ませると回廊掃除。山の斜面にある建物の階段や廊下をすごい速さで雑巾がけをしました。それが終わるとそのほかの作務をして昼のお勤めをしてから、昼の食事になりました。

 食事も修行で、坐禅を組み、肘を脇に付けないなどの作法があります。献立は、朝は粥にたくあんとごま塩。昼は麦飯とたくあん、おから。夕飯は「薬石」と呼ばれ、これは、お釈迦様の時代は夕飯を食べなかったので、夕飯は食事ではなく「薬」という名目にしたためです。薬石には煮物などが付き、おいしく食べられました。朝の粥と昼のご飯は1回、薬石は2回お代わりできましたが、栄養が偏ってしまい、私を含めた多くの雲水はかっけになってしまいました。夜の坐禅は7時から9時まで行い、反省会の後、開枕(就寝)になりました。

 常に、腹が減って眠く、栄養の偏りなどから、緊張している坐禅中でも、ふらっとすることがありました。すると、警策でたたかれたり、別室で怒られたりしました。つらく、「やっていけるかな」と弱気になったこともありました。

 12月に行われる集中的な坐禅修行の「臘八摂心」を乗り越えた1月、NHKが初めて永平寺に入り、雲水の修行を紹介する取材がありました。私は、参拝客の食事を作る台所「小庫院」で用事を済ませた帰り、山門でインタビューを受けました。「つらいことは?」との質問には、「足が冷たい、痛いというのはあるが、だからつらいということはありません」。「自由になることは?」。「自分の仕事を早くやれば、勉強をしたり、洗濯をしたり、身の回りのことができます」と答えました。見返してみると時折笑顔で、雲水の姿になっていました(77年3月3日放送のNHK特集「永平寺」)。

 約1年間の厳しい修行を経て、山を下りると人格が変わりました。特に、ルールを破った時に人を叱ることは大切なことだということを、自分が叱られた経験を通して体得しました。また、汚れや履物の乱れなど、さまざまな乱れが気になるようになりました。もう1年修行をする選択肢もありましたが、高校教員に戻りたい気持ちがあり、前年の76年9月、県の教員採用試験を受けるため、永平寺を他出(一時外出)して、試験を受けていました。
 私は試験に合格し、77年、再び県の高校教員になり、大町高校(大町市)に赴任しました。

写真=永平寺での修行中に作った年賀状。山門前で

(聞き書き・斉藤茂明)

(2026年11月7日掲載)

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